二十世紀初頭の早稲田学生
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◎華族で早稲田へ子弟を送るというのは先ず例外で、松平頼寿が入学したのも、
今の早稲田の敷地がもと高松松平家の下屋敷だったのを大隈家が買い取った縁が取り持ったのであろう。
◎陸海軍は大隈総長を帝国軍人後援会長に仰ぎながら、早稲田を毛嫌いし、
陸軍大尉の職業軍人出が、大正の初めに、剣光帽彩厳しく、胸には功四級の金鵄勲章を吊って、
珍しくも英文科に入ってきたのが異例とさえ言えるのであった。
◎実業界では、巨豪なる三井・岩崎・住友・鴻池などの新旧財閥は、やはり早稲田フォービアの患者である。
◎早稲田の教授自身も、自分の学校を全面的には信頼していなかったのかもしれない。
然らば早稲田学生の数的枢軸をなしたのはどの方面だったかといえば、既に定評となっている如く「泥臭い」のが体臭である。
言い直せば、百姓らしいということになる。明治の初期においては、学問の志望者は、各藩から選抜された貢進生たる士族を除けば、
殆ど全部が農村子弟であった。階級制度下でも、士農工商と言って士と農とは階級を接し婚姻もしていたので、
自然下士階級の学問的覚醒に先ず刺戟を受けたのは富裕農家であった。
すなわち、東京或いはその他の大都市に出て学問でもしようというのは、士族以外では、殆ど農家に限られていた。
こうして早稲田は初期の二十年の間に、田舎臭い、もっさりした性格を作り上げたが、
後れて商科ができると、その影響で先ず服装が改まり、今までの母の手織のゴツゴツの紺絣が、
銘仙や縞紡績に代って、他の大学では「早稲田も慶応に負けぬハイカラになった」と目を見張った。
しかし時既に遅く、早稲田に染み込んだ田舎臭さはなかなか一朝一夕には脱け切れない。
尤も一口に農家と言っても、生活状態は千差万別で、いわゆる水呑百姓の子は、
明治時代、義務教育の尋常小学校でやめて、半数或いは三分の二くらいが高等小学校へ進む。
そして更にそれから中学に入る者は、明治の末年までは、一年一村にせいぜい一人か二人である。
それから更に早稲田へ来ようというのは大抵村の名望家で、旧幕時代の庄屋や名主や郷士や、名字帯刀の家に限られていた。
尤も明治の農村は推移興亡の浪が激しく、年を逐うて旧家の倒産が相次いだ。
しかしそうした家には、「あの家で息子を東京に出すのに、うちでも負けてはおられない」という対抗心があり、
競うて子供を都会遊学に出したが、学資の支給が十分でなくて、今で言うアルバイトを以て補給し、
中には旅費だけ持って飛び出して、明日からの米塩の資にも困るのがあり、
彼らは異郷だから見栄も外聞もなく、先ず生活費稼ぎに掛からねばならなかった。
かくて明治の学生社会に苦学生なるものの出現を見るに至ったのである。