11 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:10:47.48
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1575164897/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:12:03.06
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:12:36.29
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:13:07.31
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
51 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:13:11.02
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
6日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:13:30.67
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
71 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:13:42.21
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
81 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:14:16.49
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
9日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:14:17.18
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
101 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:14:48.54
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
11日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:15:19.89
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
121 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:15:25.75
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
131 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:16:00.53
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
14日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:16:36.59
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
151 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:16:41.10
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
161 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:17:26.11
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 17日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:17:36.65
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
181 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:18:00.05
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
191 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:18:32.54
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
201 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:19:06.24
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
21日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:19:42.98
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
221 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:19:43.13
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
231 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:20:16.84
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
241 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:20:55.74
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
251 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:21:30.92
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
261 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:22:02.83
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
271 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:22:35.36
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、纒向遺跡メクリ地区で「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
281 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:23:10.17
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
291 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:23:46.77
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
301 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:24:20.85
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 311 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:24:54.24
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 321 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:25:27.79
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 331 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:26:00.98
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
341 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:26:31.85
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
351 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:27:05.33
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
361 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:27:38.73
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
371 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:28:31.01
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 381 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:29:05.96
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
391 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:29:41.34
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
401 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:30:15.33
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
411 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:30:48.65
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
421 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:31:23.77
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
431 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:31:58.89
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 441 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:32:31.92
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
451 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:33:22.07
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
461 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:33:57.27
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
471 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:34:35.16
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
481 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:35:09.55
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である
491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:35:45.87
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
501 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:36:36.88
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
511 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:37:12.03
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
521 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:38:00.97
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
531 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:38:40.70
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
541 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:39:13.40
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
55日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:39:21.26
>>1
必要ないと言っているんだよw
『未来 うらしまん『』『』『』・・・、ほとんど家の話。 561 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:39:47.79
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 571 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:40:21.82
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
58日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:40:30.25
禿げ
591 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:40:52.95
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行
60日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:41:29.46
>>572
「南→東」などの嘘つき騙しをして、
奈良を卑弥呼の都とか言っちゃう時点で
大和説は世間の笑い者決定だろ 611 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:41:40.07
十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
621 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:42:23.26
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
63日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:43:00.88
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな
笑いが止まらん
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笑いが止まらん
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641 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:43:04.14
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
651 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:43:36.43
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
661 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:44:10.82
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
671 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:44:43.46
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
681 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:45:16.23
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 691 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:45:48.52
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 70日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:46:09.19
家の写真だと言っているわけなんだけど、
軍人、警察・・・?何かの制服を着ていた子供の写真、
あのキュウリの葉、葱の華・・・写っていたでしょw
『ドンバ』『』『』『』?
71日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:46:40.66
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな
笑いが止まらん
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな 笑いが止まらん
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72日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:47:38.20
71日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:46:40.66
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな
笑いが止まらん
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな 笑いが止まらん
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73日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:48:45.16
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな 笑いが止まらん
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石が溶けてくれたほうが畿内説にとってありがたいみたいだな 笑いが止まらん
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74日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:49:54.21
ほとんど同じ話でしょ、
馬に乗っていて・・・・腰に刀を差していた。
当時の職?は・・・不明。
75日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:50:46.34
じゃまするな
奥山が一心不乱にテンプレ作成中だから
761 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:52:01.75
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
77日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:52:05.54
それで、お前の名前は?どこの池沼なんだ?
78日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:52:17.96
僕達は、今、論理という物事と併行して、虚数軸で垂直に交わる二つの複素平面上のそれぞれ一点が、一方が一方のζ関数で変換される時の、その2点から延びる、それぞれの存在する複素平面に対する垂線が交わる、複素空間での点の存在のあり方について研究しているのだが、
息抜きに、朝鮮民族が民族運動として宣伝している、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、論破されてしまった絶望で自殺してしまうことを、防止するためのボランティア活動もしているのだったな、、、
79日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:52:27.34
>>75
おもろい座布団10まい
>じゃまするな
奥山が一心不乱にテンプレ作成中だから<
笑いが・・・止まらない 801 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:52:33.79
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
811 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:53:06.02
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
821 ◆q8leUXpsw. 2019/12/02(月) 20:53:16.23
邪魔するな
831 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:53:40.84
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
841 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:54:13.62
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
851 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:54:46.13
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
86日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:55:15.81
(纏向遺跡166次調査)
>遺構面の状況 3世紀前半段階の遺構が存在する下層の遺構面は大きく分けて黄褐色粘質土(地
山)・黄褐色粘賞土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)の2つの土壌から構成されています。<
考察
この土壌はこのpH条<件下では、岩石に含まれた珪酸は溶け出しますが、土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
871 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:55:20.18
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
881 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:55:54.24
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
891 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:56:30.78
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 901 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:57:02.75
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
91日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:57:12.25
(纏向遺跡166次調査)
>遺構面の状況 3世紀前半段階の遺構が存在する下層の遺構面は大きく分けて黄褐色粘質土(地
山)・黄褐色粘賞土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)の2つの土壌から構成されています。<
考察
この土壌はこのpH条<件下では、岩石に含まれた珪酸は溶け出しますが、土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
921 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:57:35.33
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
931 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:58:09.95
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
941 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:58:48.98
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 95日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:58:50.88
21:00になるな。
961 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:59:25.57
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
97日本@名無史さん2019/12/02(月) 20:59:41.05
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
981 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 20:59:59.01
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
99日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:00:06.93
870桜井市 石斧2019/12/02(月) 17:55:12.13>>873>>919
1発掘調査報告(150回〜159回)/桜井市ホームページ
土器以外には太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品、馬歯、円筒埴輪、盾形埴輪、不明形象埴輪が発見されました。
2奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[常設展示案内/弥生時代]
唐古・鍵遺跡 伐採・加工用石斧. 弓(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵) 100日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:00:09.28
騙り、成り済まし乙。
とあるスレなどを読んでみた?
清何やら(下の名前、女の人。)という家があって、スサノオになったとか。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
どこの基地外なんだ?
101日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:00:13.87
バンビシャスは、次回、福岡で闘うのだったね。
1021 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/02(月) 21:00:31.24
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
103日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:00:36.72
870桜井市 石斧2019/12/02(月) 17:55:12.13>>873>>919
1発掘調査報告(150回〜159回)/桜井市ホームページ
土器以外には太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品、馬歯、円筒埴輪、盾形埴輪、不明形象埴輪が発見されました。
2奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[常設展示案内/弥生時代]
唐古・鍵遺跡 伐採・加工用石斧. 弓(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵) 104日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:01:48.14
870桜井市 石斧2019/12/02(月) 17:55:12.13>>873>>919
1発掘調査報告(150回〜159回)/桜井市ホームページ
土器以外には太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品、馬歯、円筒埴輪、盾形埴輪、不明形象埴輪が発見されました。
2奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[常設展示案内/弥生時代]
唐古・鍵遺跡 伐採・加工用石斧. 弓(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵) 105日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:02:31.24
明治〜(明治時代)とか、
よくわからない話をしている人間もいたりwww?
池沼か何かなんだろう。
106日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:04:19.01
>>101
天皇が、何者達に名誉を与えるかということを、決定するための闘いがあったので、リーグの闘いの間隔が空いてしまったな。 107日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:04:49.87
例えば、
バロン(バロン滋野?不明)と同じ話だろう?
明治時代の頃に〜?
108日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:05:27.19
>>75
一心不乱 頂きました
これが証明してるな
>>102奥山
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
もう前スレおわってるし 109日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:06:46.36
弱い犬ほど前振り(テンプレ)が長い
110日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:07:11.42
奥山くん
やればできるじゃん
今回はフルスピードでスレ立てたじゃん
特に後半
また 笑いが止まらなくなった
111日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:07:23.06
何度も書いていることなんだけど、頭が悪いんだろうw
112日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:07:56.01
>>608
>仮定じゃなくて、思考実験
しかし、 中性で微生物や電流の影響を受けない土壌中 0.05mm/yはちゃんとした測定値で、九州説の>>540が
「百年後には、鉄器は5mmのサビに覆われた状態になるだろうが。」って書いてるぞww
この時点で両面から5mm、厚さ1センチの鉄塊が芯まで錆びてるww
普通の鉄製品は厚さ5ミリもないから、1800年どころか100年で朽ち果てるなww <
しかし、纏向の「鉄器の修理工場らしきところの鉄の破片や鉄粉のようなものは、
地面に埋もれていたんだろうが、何故溶けなかったの?。 113日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:08:15.12
福岡の高校生のチームが、ジェッツに敗北したのだな、、
114日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:11:47.63
例えば、バロン滋野。滋野?
別に、お前の家の話でも良いけどwみたいな話なんだろう。
115日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:13:48.16
王権誕生 (日本の歴史) 寺沢 薫 (著)
でヤマトの弥生後期・古墳期の石器を解説してるよ
巻向とは書いてないが
116日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:15:58.70
>>609
>「場所によって大きく鉄の溶け方が異なるのだから、出土量での比較は意味がない」が
この情報から読み取れることだよww<
じゃ、纏向にも、
「鉄器の修理工場らしき場所に鉄粉や鉄くずのような細かいものが残っていた」んだから、
纏向にも「鉄が溶けない」場所が十分あった、という事であり、
やっぱり、大和以外の場所に比べて、大和が極端に少ない、というのは矛盾になる。 117日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:16:50.90
お前の家の話でも良いんだけど、実際は違うとか。
『西王母 北辰』
(天王)天皇〜というのも同じような話。
118日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:17:49.04
>>610
「南→東」などの嘘つきだましの大和説のひとの日本語はよくわからない
きちんと喋れないようだ 119日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:19:59.77
例えばバロン滋野の話、
突如、滋野と名乗っているけど・・・実際は何やらさん。
あとテンノウ?
120日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:20:05.25
古代アジアの海洋民(海人族)は立派な船で航行していたのであり、その船に乗って交易活動をしていた「倭人」の商圏は、
東南アジアから中国、朝鮮半島、日本列島、インドへと繋がっていた。
「魏志倭人伝」の一支国の説明で「南北に市糴(交易)す」という表現があるが、
東南アジアの多島海の人々は今も「南北に市糴」している。
弥生時代当時の東南アジアでは、稲・雑穀を栽培し、青銅器を作り、甕棺で埋葬するサフィン文化が栄えていた。
同じ頃に、朝鮮半島南部や九州北部や南インドでも甕棺葬が大流行している。
これらの流行が東アジア〜南インド沿岸の地域で同時期に起きている事は、
海の道でこれらの地域が繋がっていた事を示している。
東南アジアからの南方系モンゴロイドの遺伝子が現代の沖縄の人に認められる事も
最近のミトコンドリアDNAの解析(アリゾナ大学の宝来聡氏の研究)から明らかとなった。
沖縄で見られる眉がはっきりした目鼻立ちが良い美人は、東南アジアで見られる二重瞼で目鼻立ちがくっきりした美人に
似ている。古代インドネシア人は黒潮に乗って日本に到達したのである。
卑弥呼を含む邪馬台国の倭人が南方系海人族である事は間違いない。
シャーマン(巫女)卑弥呼の使う「鬼道」こそ日本神道が成立する以前の「古神道」であり、これもジャワ島に由来する。
「魏志倭人伝」には「倭地温暖、冬夏食生菜」と記されており、
邪馬台国は一年を通して温暖な気候で、生菜食をしていた事が分かる。
また、「男子無大小皆黥面文身」とあり、男子は大人も子供も顔や身体に入れ墨を入れていたという。
東南アジアでは現在も入れ墨をする習慣が残っている。
これは海洋民族故に素潜りで漁をする際に鮫やウミヘビを避ける為だと考えられている。
熱帯のジャワ島は「魏志倭人伝」が語る倭国の気候や倭人の風習と全く同じである。
「朱丹(赤い染料)を身体に塗っていた」とも記されているが、これはヘナという天然植物の染料で顔や手足に模様を描く
東南アジアに古代から伝わる風習で、今日でも結婚式で花嫁はヘナのタトゥーを施す。
ヘナで髪を染めると髪を痛めずに色落ちもしないので現在の日本では白髪染めとしても人気がある。
121日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:22:30.04
>>620
そんな人いたか?
纏向は鉄が溶けるとデマ流して調査報告書に乗ってると連呼しまくったバカはいたが
もちろん大和説だ 122日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:24:23.95
サトシの研究?サトシというの、もれ(仮)の名前なんだけど。
馬に乗っていて・・・、その家の話。写真も同じ。
123日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:27:09.93
>>633
要するに「南→東」などの嘘つきだましの大和説者やスレ主や類スレ主は、
発狂した皇国史観畿内説信者ってこと 124日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:27:14.88
お前たちの言っている倭猿、明治時代〜?
そういうのも知らない、会ったこともないしw
どこの池沼なんだ?
125日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:30:05.90
>>636
こんな中傷しかできず、
「南→東」などの嘘つき騙ししか出来ない大和説
終わってる 126日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:31:21.52
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国?】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国?】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国?】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国?】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸
127日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:32:40.22
>>126の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国@】女王之所都▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国A】(幻)〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国A】東南 船行1年」 128日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:33:00.74
詳しいことはわからないけどw
明治時代?もう少し前?・・・当時の話、
家は畿内、九州、そういうところの出身ではないしw
129日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:34:20.79
>>126
>>127
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 130日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:34:58.25
>>121
キナイコシ畿内説語れないな
報告書も眼を通してないwwww×∞ 131日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:35:30.26
>>129すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 132日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:37:49.51
家は、当時、日本の東北地方のほうに住んでいたと言っているし、
テンノウも、そっちのほうにいたんだろう。
『西王母 北辰』
正式に(即位)認められているテンノウ。
133日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:38:10.95
>>131
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 134日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:40:44.56
>>650
これが、「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説の最後の砦(のつもり)だから、
鉄は、それの存在する狭い範囲の土壌に拠って、
まともに残らないもののあれば残るものもあるので、
ある程度の広範囲での出土量であれば、
その地域全体の過去の流通量・使用量の見積もりに使えるという
単純な科学的事実が認められなくて
駄々を捏ね続け、恥をさらし続ける大和説が憐れだ 135日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:41:25.12
>>133
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の所業=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」@九州の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 136日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:41:35.85
自分が誰々(神や仏・・・)になる方法?
というものがあってw・・・という話をしている人がいたでしょ。
137日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:43:41.08
>>135
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 138日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:45:36.50
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石原は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
139日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:48:22.97
>>653
>>で、纒向の土壌は鉄が溶けやすいのか溶けにくいのか。<
>溶けやすくても溶けにくくても、特に問題にならない
通常の土壌であれば鉄は溶けるものだ<
溶けやすいか溶けにくいか?は、非常に局所的な問題であり、
纏向クラスの広範囲な地形地域でも、その場所に拠って違うだけであり、
それは、日本の殆どの地域社会でも見られる事であり、
そんな地域社会間の比較問題では、使える筈がない。 140日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:49:04.53
2実数軸で構成された平面において定義されたζ関数を、複素空間に拡張するためには、ζ関数の定義を、実数平面上で定義可能な範囲の全ての領域で、変換結果を一致させたまま、変更する必要性があるのだね。
141日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:53:07.11
>>658
>>鉄器時代なのにロクに鉄が出土しない纏向は哀れだなw<
>大量に出てますが、何か?<
纏向の鉄器は、3世紀末〜4世紀のホケノの鉄鏃以後であり、
卑弥呼の時代の3世紀前半ではないから、証拠にならない。 142日本@名無史さん2019/12/02(月) 21:58:06.24
>>660
>古墳の形式を基準に奈良を中心とすると東日本と西日本の堺目となり、
銅鐸銅矛という祭祀アイテムを基準とするとその中心となる境目は吉備あたり <
「南≠東」に拠って、奈良は×だし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って、吉備から南関東まで、
九州倭国の中の旧小国の附庸國になっただけであるから、×。 143日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:00:53.92
>>140
だが、それでは、本来、厳密には実数平面上では定義不可能なために、恐らく無限大なのだと頭が悪すぎる者達に思考停止されてしまっていたζ(-1)が、単純な実数に収束してしまうのではないのかな。
1+2+3+4+5+6+・・・= 144日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:01:34.48
>>662
>畿内に伊都国・奴国などが存在し、水行・陸行は出雲から下関方面へと進み結局は九州のどこかとも言える<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であるし、
行程も「南≠東」などに拠って、×。 145日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:01:55.28
陽子は、自己崩壊するのだろうか、、
146日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:04:44.95
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。
147日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:06:17.61
僕達は、∞という記号が、嫌いなのだったね。
148日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:08:41.56
僕達は、limという物事も、嫌いなのだったな。
149日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:10:01.66
Δという文字は、良い使われ方をしているのだったね。
150日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:13:27.62
邪馬台国という物事の定義を、決定すれば、邪馬台国が何処にあったのかも、究明できるのだったね。
151日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:15:55.29
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。
152日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:18:40.64
倭人は、Δで人口が急激に増加したのだったね。
153日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:21:12.26
Δという文字には、色々な意味での使われ方があるのだね。
154日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:24:18.91
おい、奥山氏、はっけよい。。。
155日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:33:08.62
刑務所に行けと言っているんだよ、どこの基地外なんだ?
数年前のとあるスレ、
誰か(不明)と間違えているんだろうみたいな事を言っている人もいたし、
家の話なんだけど、歌舞伎〜UFO?ドラクエ、ドンバ・・・という話なども。
156日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:33:49.80
>>667
「南≠東」などは、屁理屈じゃなくて科学的に正しい理屈なんだけど、
大和説者の脳には難しかったかな?
大和説はアンチ科学アンチ学問だから、科学的論理は全部否定しないと成り立たないんだよね? 157日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:35:02.53
王母 寒いな〜、
松傾く・・・・?家は、こういう名前の家なんだけど。
『❓』???????
158日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:36:46.47
鳳凰〜このようなものも出てきたりするでしょ?
159日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:37:50.89
根拠の無い話ばかり
160日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:38:16.13
>>683
「南→東」などの嘘吐き騙し、
これが大和説者の妄想脳 161日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:40:21.91
妹・・・5月15日w
なぜか、そういう曲()などと同じ。
まいく・おー、・・・、・・・、・・・。
162日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:40:30.87
>>688
「南→東」などの嘘吐き騙しの証拠は?
出せない?
大和説の言うことは妄想ってことだね 163日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:45:33.89
テレビ局があるでしょ、あとラジオも、ほとんど終了なんだけどな。
・・・出版社なども。
164日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:51:53.41
>>703
>国の正史が虚偽と言うことは、人間で言えば経歴詐称(詐欺罪)に相当する。
我が国の正史・記紀が虚偽であってはならないのである!<
記紀は、九州の倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書だよ。
>邪馬台国がどこにあっても現代においては何も変わらない。<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
日本人なら九州説を推すべし。 165日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:56:25.03
>>712
大和説名物は、「南→東」などの嘘吐き騙しや、
「都合の悪い情報」はキコエナイフリ 166日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:58:19.14
>>716
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、質問されると何か都合が悪いのか? 167日本@名無史さん2019/12/02(月) 22:58:19.95
一部企業なども終了wなぜだと思う?
168日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:01:13.55
>>718
>>その石斧、どこにあるの?<
>ごろごろしてますよ。
例えば、大和高田市の有井遺跡、出屋敷遺跡など。
石斧は溶けませんからなぁ。<
成程。 169日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:01:14.76
邪馬台国は畿内ヤマトの3世紀を解きあかすことで自然と浮き上がると思うね
個人的には神功皇后や応神辺りに九州からヤマトと卑弥呼の祭祀を引っ張りこんできたと思っている
それまでは正統な王権に憧れた物部政権で古墳は誇示と憧れの顕現
四世紀以前に畿内がヤマトを名乗った痕跡は皆無であり、3世紀内に九州はおろか大陸文化の流入も海人による交易品に限られる
ある意味純粋な畿内倭国文化が醸成されたのが纏向文化で、邪馬台国とは関係なくこれはこれで誇っても良い文化だったと思う
170日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:02:31.25
王母 龍宮〜・・・松傾く、
この家があるでしょ?なぜ『未来 うらしまん』なんだと思う?
ドンバ(?)なども同じ家・・・・・・・・・・・・・・写真もw
171日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:08:25.55
『暴力団 口座 凍結』(凍結拳w)
もれ(仮。王母〜寒いな・・・。)の書き込みなんだけど、
とあるスレなどを読んだことがあるでしょ。
172日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:09:01.12
>>734
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説は、挽回に必死か?
一生懸命スレ進め
とにかく声の大きさ、発言量で圧倒しようという声闘の価値観で生きてるってのがよく分かる 173日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:11:41.31
>>735
「南→東」などの嘘吐き騙しの反論証拠が出せないなら
「他者にデマカセ言いまくって攻撃してばかり」
なのは大和説の人ということになるね 174日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:14:11.83
家は暴力団とか、そういう家ではないんだけど、
『暴力団 白い服』
このような白い服の写真も貼り付けたはず。
あと・・・写真とか、ドンバ(河伯、河童)?、傾いた松の木・・・。
175日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:16:22.24
>>743
「南→東」などの嘘吐き騙しの通説大和説者が、
自然や歴史の史料事実や史料実態とぜんぜんちがうことを、
根拠も言わずに言い張っても
反論にはなりません 176日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:17:11.42
なぜ知っている人がいるのか?・・・なんだよな。
177日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:18:12.75
>>746
今日も、「南≠東」などの嘘吐き騙しで、
簡単に論破されて逃げる大和説 178日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:21:02.24
>>749
「南→東」などの史料事実や史料実態の比定や曲解の、
嘘吐き騙しのの大和説さん
どんどんトンデモ度が増していきます
大和説が世間で相手にされないのは
実にもっともだ 179日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:24:30.80
>>762
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
そのウソをつき続けることで
大和説の信用は地に墜ちる 180日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:27:23.99
>>765
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が提唱する
「一世紀の畿内に巨大宮殿」説? 181日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:30:41.52
>>770
「南→東」などの嘘吐き騙しなどに関して、
自分らのらウソ主張の証拠を相手に出せと要求する
トンデモ大和説が
世間から相手にされないのは当然だな 182日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:32:21.12
>>771
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の言い訳が
どんどん異常な内容になっていく 183日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:39:12.63
>>985
>>>930
>すぐ近い巻向と唐子鍵とは敵対してたのかな?
唐古・鍵遺跡が銅鐸文化で、纒向遺跡が前方後円墳・銅鏡文化圏なのだから、地理的に近くても、違う氏族だったのだろう。
そして銅鏡文化は本質的に九州北部の文化だ。
畿内は九州北部の氏族に制圧されたんだよ。
それが3世紀、卑弥呼の時代の出来事だ。
衰退した奈良盆地は鉄器も与えられず、木製品で土木作業をさせられたか、一時的に鉄を使った人夫が来て工事をした後は、どこかに去ってしまった。
残された入植民が纒向宮のミマキイリヒコの監督のもとに農業生産に従事して、収穫物は筑紫へと運ばれた。
王都への献上の品が集積されたのが、筑紫に土器が大量に流入した理由だ。 184日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:41:55.21
>>788
各地域の鉄の出土量は、
「その地域の現代の鉄の存在量・使用量」ではなく、
「その地域内の各地の出土鉄量」の合計がどれだけか、によって決まる
たったこれだけの単純論理が理解できないのだから、大和説脳は終わってる
まあせいぜい恥をかき続けてくれ 185日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:45:40.94
>>792
よその地との「出土量」の比較に意味があるのに、
それの「否定」しかすがるものがない大和説は、
「南≠東」などの嘘吐き騙しと同じく、
かわいそう 186日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:46:44.24
あと『ザ・モモタロウ』に出てくる、シュテンドルフ(仮)。
お前たちと飲んだばかりに、このような事になってしまった。
老婆も同じような話をしているし。
何かの家の人で・・・・、凄い家に・・・とか、そういう話でしょ?
187日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:49:24.99
酒呑童子?・・・何かの家の人だという話だしな。
188日本@名無史さん2019/12/02(月) 23:52:32.35
>>794
>もちろん残りやすいところに存在するやつは残ってるよ?
でも、大正以前くらいの時期ならくず鉄屋もいたし、ある程度以上の量の鉄は
回収再利用されてる
土に埋まった鉄が出るとか出ないとか論じる状況ではない<
「土に埋まった鉄」も「土表面に残っていた鉄」も「それらの合計」も、
いずれであっても、意味はある。 189日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:03:27.05
>>817
>>鉄斧は出ないが石斧はたくさん出るんだね?<
>紀元前にね それが、何か?<
3世紀前半の纏向にね。 190日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:08:58.89
>>819
>出土例が少ないのだから少なかったと言わざるを得ない
これが史料実態だと何度教えれば分かるんだろうねぇ
まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和脳はしょうがない
>纏向信者は普段は「考古学的証拠」を強調するくせに、
「考古学的証拠」というのは
石器がああるり、且つ大量の矢板がある、ことから分かること
=纏向遺跡には十分な節気があった、ことを指すんだよ
「出土しないのはなかったからだ」、なんていうアンチ科学の大和説ではダメなんだ 191日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:11:54.78
>>821
>でもな、3世紀の纏向では石斧は出土しないんだww <
でもな、どなたかがおっしゃった事では、
3世紀の纏向では石斧は出土していたやしいらしいんだよ。 192日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:14:54.90
いよいよ畿内説の虚像が明かされてきた
193日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:21:40.95
>>822
>奈良には4世紀以降まで待たなければ首長墓が現れない。
この否定で既にアンチ科学だからなぁ、大和脳は
現代考古学の標準編年なんて、全て、
「南→東」などの嘘吐き騙し根拠にする、というインチキ大和説学者らの編年なのに、
それらををすべて肯定讃美しないと気が済まないのが大和説
そして、全く違う編年による九州説学者らの年代は、
都合のいいところだけ利用するというチェリーピッキング
まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しのアンチ科学のとは、
科学の言葉では通じ合えないってことだ 194日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:39:33.94
無職奥山がまたクソスレ立てたのか?
195日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:40:19.92
邪馬台国畿内説は破綻しました。
キナイコシ奥山は無職です。
196日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:42:37.42
『酒呑童子』
ほとんど後付け(伝説当時でも)なんだけどなwみたいな話と同じ。
シュテンドルフは、実際は・・・上の人間。
『ドラクエ ジパング』こういう話も同じ。
197日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:42:42.43
虚大集落と言われる纏向遺跡とは
虚無なのだー! 198日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:49:49.11
酒呑童子、
詳しいことはわからないけど、
出家して何やらのような家の話でしょ。
専門家に聞いたほうが良い。
199日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:50:09.27
奥山は5chで使っている労力を論文執筆に振り向けた方がいいんじゃないか?
じゃないといつまで経っても無職奥山、無職キナイコシだぞ。
あ、それともここの書き込みで給料もらえるのかな?
200日本@名無史さん2019/12/03(火) 00:57:07.81
ほとんど同じ話
『魔界塔士サガ』『』『』『』
201日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:02:37.83
嵯峨(さが)源氏?
なぜか創価か何かなんだろうと言っている人もいたり。
202日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:05:39.89
奥山だけ取り残されてる?
畿内説のネット工作活動はひとまず終了したはずなんだけどなw
203日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:08:48.00
数年前の、とあるスレにも現れたでしょ
(さが?何の話なのか、わからないんだけど)
創価なんだろう?創価なんじゃないのか?と言っている人。
204日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:23:10.06
ゾンビランド
205日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:39:26.69
あの戸籍、系図などの話と同じ、
勝手に作成したり、売り買いしていたw時代があるとか。
・・・老婆談があるでしょ、
なぜ詳しいんだと思う?老婆の家の系図なども無いのに、
ネットなどで調べてみた?あと傾いた松の木・・・も詳しいし。
206日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:45:01.34
家には専門的な本や書もないしなwなぜ知っているんだろう。
たしか牛を飼い、(蚕を飼い)機織りをしていた家・・・、
橋が完成したので・・・という話。
『』『』『』・・・。
207日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:48:49.86
『牛飼い 機織り』
ほとんど合致しているんだよ、謎の電気(発電、雷?)の話とか。
208日本@名無史さん2019/12/03(火) 01:56:32.33
『姥清水』水、湧き出る・・・。
なぜか、いまの福島県のほうの話、
当時、住んでいたことがあると言っていたり。
河童(河伯)の伝説?
209日本@名無史さん2019/12/03(火) 02:38:11.58
つぶやき飽きた
同じネタばかり進歩なし
210日本@名無史さん2019/12/03(火) 04:54:04.07
精神科に行けと言っているんだよw
どこの池沼なんだ。
211日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:00:27.09
精神科、精神病院?
そういうところがあるみたいだし、そこに行け。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
家の写真があるでしょ、誰の家の写真だと思っていたの?
ドッペルゲンガー?
212日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:03:18.32
家は、龍宮〜〜〜〜〜〜?
そういう名前の家なんだけど、頭が悪いんだろう?
213日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:10:31.12
〜明治時代、学者・・・不明・・・、
なんでも良いんだけど、どこから拾ってきた話なんだ?
お前の読んでいた資料(史料)などがあるでしょ?
214日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:16:24.34
もれ(仮)の家が置いて行ったもの(本や書)を読んでいたんだろう。
ちなみに家は京都などの出身ではないんだけど、どういう事だと思う?
なぜか『西王母 北辰』このような話も知っていたり。
215日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:21:20.12
住んでいたというところも、いまの福島県のほうの・・・wと言っていたり。
『❓』?
216日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:27:20.19
テンノウ()も同じ、
正式に・・・認められた(認めた。即位。)家は、テレビなどに出てくる家ではない。
わかっただろう?
217日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:46:28.77
『聖化 日神 日霊 津』(神に関する古語の研究)
こういう本?なども、2000頃に出版されたものなの?
218日本@名無史さん2019/12/03(火) 05:56:33.10
調べてみた?なぜか小椋佳の話をしているだけ。
219日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:01:07.36
ほんとーに、わからないんだね、何度言ってもw
もれ(仮)が認めた人物、正式にという意味、・・・、・・・、・・・。
220日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:06:12.83
・・・・・・・・・・・・、
・・・・・・・・・・・・、
本当に、そんな家の人だったの?と思われるかもしれないけどw
221日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:11:08.66
>>829
>(石斧)有井遺跡は弥生時代中期 出屋敷遺跡は編年観が定まらずってことで<
ふーん。 222日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:23:22.87
>>831
>纏向遺跡に石斧がない、
というより2世紀後半以降の奈良盆地に石斧がない<
(鉄器と違って)石斧は使っていて割れてしまったら、
再生が効かず、大地に戻ってしまうもの。
要するに、「南→東などの嘘吐き騙しの)大和説考古学者は、
石斧が割れたものを探せていなかったのではないか?。 223日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:26:58.10
>>832
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者らは、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などの隠蔽のように、
大和説に都合の悪い史料事実や証拠出すのが、
異常に嫌いだからに決まってますがな 224日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:31:51.14
225日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:34:32.16
>>834
>まず第一に、矢板は大量に必要
その大量に必要な分をリサイクル品で確保するのは困難だってのが分かるか? <
まず、大溝の総延長の内、矢板が必要であったの何m位だったんだい?。
溝壁が崩れる心配がない場所では、矢板自体が必要ではない事がいくらでもあり得る。 226日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:45:16.45
>>839
>>弥生後期には石斧がなくなる<
>石斧の消滅には地域差があるというのが研究の結果。
だいたい後期末が列島全域で石斧がなくなるという流れ。
有井は中後期の遺跡とされている。
奈良では大和高田の有井で出土しているくらいだから、
当然石斧の使用は奈良地方全域が該当する。<
成程。
奈良盆地では、やはり、九州倭国の東征軍が「鉄器」を持ち込んで来るまでは、
ほぼ全て「石器や石斧」で製材していたんでしょうね。 227日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:46:48.25
>>224
何故、溶けなかったんだ??
キナイコシによると溶けるはずじゃないのか??? 228日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:49:03.37
>>842
>だから何? 伐採用石斧が存在しない事実に代わりはない<
石器は割れれば、再利用困難であり、捨てられ、土に還ってしまうもの。 229日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:51:02.47
キナイコシの思考実験によると、1800年で18センチ溶けるはず。何故鏃のような小さなものが溶けなかったか、ちゃんと説明しろ!!!
逃げてんなよ、だっせえクソだな
230日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:57:42.61
すみません、キナイコシ、オクヤマ、こと1です。無職でやることがないので九州説の皆さんを馬鹿にしてやろうと思って、却ってバカなことを書きました。
私こそがバカものでした。お詫びします!
231日本@名無史さん2019/12/03(火) 06:59:32.31
キナイコシが恥ずかし過ぎて、腹いてぇ。
232日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:10:15.20
>>228
>
石器は割れれば、再利用困難であり、捨てられ、土に還ってしまうもの。
石器が土に還るとか
九州説イタすぎ 233日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:12:29.57
>>851
>石斧の柄と、鉄斧の柄は刃のつけ方が異なるから区別できるぞ?w
例えば纏向遺跡65次調査(巻野内)では、鉄斧の柄が出てるよ
「この中で特筆すべきものには線刻絵画土器や『鉄斧の柄』、黒漆塗りの盾、建築部材、
案などの用途の判明したほかに、多量の加工木、木材の削り屑のチップ等などがあった。」 <
問題点は二つ。
まず、巻野内の年代比定だな。問題は、
やって来た東征軍の最初の前方後円墳である3世紀末の石塚よりも、
前であるか?後か?、という事。
東征軍なら鉄器を持っており、使える。
また、「鉄斧の柄」という判断根拠が問題だな。
斧として使う限り、鉄でも材でも同じであり、
硬い木の先を割って挟み込んでツルで巻き付けるか?、
鉄や石に穴をあけて、柄を差し込んで全体をツルで巻き付けるしかない。 234日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:16:23.81
>>852
>石器は出土してるよ
1、桜井市 横内遺跡 石鏃やじり
2、広報「わかざくら」 平成10年8月15日号掲載 「谷遺跡でまた翼状剥片石器発見」
(発掘した石器の中に、翼状剥片(つばさじょうはくへん)と呼ばれる破片がありました。・・・・)
3、大福遺跡 石器の原材料となる耳成山で採取される流紋岩(りゅうもんがん)片なども出土しています。
4、発掘調査報告(250回〜259回)/桜井市ホームページ
出土遺物では奈良時代の井戸から斎串や墨書土器などの祭祀遺物、環濠では、弥生時代中期〜後期の土器や石器が見つかりました。
5、桜井市埋蔵文化財センター見学 投稿より
桜井市における埋蔵文化財の発掘調査や研究の成果がわかるようになっていて、土器や石器、遺跡の出土品全般が一目瞭然でした。 」
桜井市 石器で検索するといっぱい出てきます <
成程。PC検索の威力は凄いですね。 235日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:25:11.64
>>855
>畿内は唐古の出土品にもあるように、わずかながら鉄を使っていたわけよ
しかし纏向時代になるとその痕跡が超希薄になってしまうんだよ
2世紀〜3世紀前半には鉄が入手できなくなったか、鉄を使わなくなったんじゃないかな
その理由を真面目に探せばいいんだよ <
やはり問題は、
年代比定と「東征毛人五十五國」に征服軍がやって来た事なんでしょうね。
東征軍の主力は、3世紀末埋葬の石塚の将軍クラスが最初であり、
鍵古鍵は、その東征軍主力に拠って、滅ぼされた。 236日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:44:22.58
「柱状片刃石斧」
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。
この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。
阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。
南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、
東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など) ・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、
姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。 @阿波
237日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:44:35.09
翼状剥片って旧石器なんだけど
キウスもザラコクも本当にバカだな
238日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:48:21.66
239日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:48:40.88
「柱状片刃石斧」
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。
この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。
阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。
南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、
これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、
東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など) ・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、
姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。 @阿波
240日本@名無史さん2019/12/03(火) 07:58:10.01
>>236
石器 いっぱい出てきてるんだ
奥山はなぜ嘘をつくのだろうか
それとも、なーーんにも知らないのかな 241日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:04:54.22
>>224
>福岡の飯倉d遺跡の竪穴式住居跡からだけで鉄鏃が4つでてきてる。
鉄の溶けにくい砂質土の遺跡でもそれっぽっちがボロボロになって残ってるだけなんだね 242日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:07:45.57
>>240
>奥山はなぜ嘘をつくのだろうか
嘘って、何が? 243日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:09:29.32
>>237
何勘違いしてるの
石器が出ないと言うから列記した中のひとつだよ
マキムクの報告書すら眼を通さないから
レスの流れがわからないのはしかたないけど 244日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:13:16.63
奥山 体力だけはあるな もうインしてるな
いつ寝てるの??
245日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:15:18.28
ちっさな蛙の骨が残ってるのに鉄だけ溶けてなくなるとかw
それなんて宗教?w
246日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:19:47.43
>>224
>福岡の飯倉d遺跡の竪穴式住居跡からだけで鉄鏃が4つでてきてる。
これだけで鉄鏃の数は奈良県に並ぶ。
鉄斧など鉄器数点が民家から見つかる。<
鉄器は溶けて無くならないじゃん
奥山はなぜ嘘をつくのだろうか
それとも、なーーんにも知らないのかな 247日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:20:53.00
248日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:24:55.08
>>246
>鉄器は溶けて無くならないじゃん
は?
あらゆる鉄器は溶けてなくなって残らないとか
誰も言ってないよな
ましてや奥山が言った形跡なし 249日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:25:44.12
>>247
その「柱状片刃(かたは)石斧(せきふ)」は、倭国(阿波)産の「緑色片岩製柱状片刃石斧」「青色片岩製の柱状片刃石斧」。 @阿波 250日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:27:10.39
>>246
陸の孤島、奈良は他地域と比べて桁違いに弥生の鉄が少なすぎる
川越哲志「弥生時代鉄器総覧」2000より
弥生時代の鉄鏃の出土点数
福岡…398
大分…241
宮崎…100
熊本…339
山口…97
岡山…104
京都…112
大阪…40
京都…112
南関東…108
奈良…4
w 251日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:29:16.15
キナイコシのこれ覚えてるか 得意そうに何度も投稿してたな
593日本@名無史さん2019/11/30(土) 15:03:37.02
連続句読点に指数関数の問題です
ある物質が、3年で1%減少するとします
つまり3年で存在量が99%になります
300年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか?
1800年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか?
連続句読点は指数関数が理解できていると言っているんだから、問題の意味は理解できるし、
簡単に答えられるよな?ww
252日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:31:25.85
奧山氏は、3年間で100トンの鉄が99トンの鉄になると考えていただったのだな。。。
253日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:33:00.03
小学6年生向けIQテスト
>>129
鉄鏃を武器として用いていた3世紀の倭国で、邪馬台国と狗奴国は戦争していました。
さて、両国はどこにあったでしょうか?
>>250を参考にしてもかまいません。 254日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:35:13.41
奥山の何年も大型建物群と言ってたな
これで、テンプレ急きょ訂正したなwwww
>建物B・・・床面積 25u
建物C・・・床面積 42u
建物D・・・床面積238u <
255日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:37:36.17
256日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:46:39.78
>>253
>鉄鏃を武器として用いていた3世紀の倭国で、邪馬台国と狗奴国は戦争していました。
という証拠は? 257日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:47:14.55
奈良…4
w
258日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:47:30.82
畿内説は、いじくりがいあるなあ
ネタには、当分困らん
259日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:50:02.28
>>250
福岡…398
大分…241
宮崎…100
熊本…339
奈良…4
w 辛うじて福岡の1%(防衛費)は超えられて、本当に良かった!www 260日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:51:31.25
奥山のこれも笑えるぞ・・・・・・・
奥山が 九州説の息の根を止めた瞬間
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
582日本@名無史さん2019/11/30(土) 14:43:08.68
九州説の頭のおかしい人以外は、纏向遺跡で鉄の出土量が少ない理由は
これで納得がいったでしょ?
「2006年の文化財科学会で土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表されてから
マトモな頭の人は鉄器出土量で単純比較なんてしなくなった」
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
これでも納得がいかないとか、出土量が違うのは1700年前の使用量が違うからとかいう人は
高校生レベルの知的能力がないというカミングアウトでしかない
九州説の息の根がとまったといっていいんじゃない? 261日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:51:58.29
>>251
それがどうかしたか?
「残っているものは残りやすい条件がたまたま実現しただけということ」
とも言ってるよな 262日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:53:27.53
>>260
反論できないのにヘラヘラ笑ってると
足りない人に見えるよ 263日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:54:44.77
>>256
お前は馬鹿か・・問題の真意を汲み取れないのか 264日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:56:22.57
もし仮に、奈良の土壌酸性度(鉄の溶けやすさ)が福岡の6倍として、
福岡398 vs 奈良24
【小学6年向け知能テスト】
もしこの状態で、福岡県と奈良県が戦争に突入すれば、どちらが勝つでしょう?
265日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:58:59.38
庄内期の石器の話をしてるのに文脈読めずにドヤ顔で旧石器を提示
間違いを指摘されてもそれを反省せず醜い言い訳
バカな上に超自己中とか掬いようがないな
266日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:59:40.21
畿内説なんてからかいのネタでしかない。
267日本@名無史さん2019/12/03(火) 08:59:40.72
>>262
息の根 止めて無いじゃん
総攻撃にあっちまっじゃん
良く読んでみ
>九州説の頭のおかしい人以外は、纏向遺跡で鉄の出土量が少ない理由は
これで納得がいったでしょ? <
ともカキコしてるじゃん つまりマキムクの土壌は鉄が溶けにくいと言っているようなもんじゃん 268日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:00:40.97
>>250
>福岡…398
>熊本…339
これが邪馬台国と狗奴国か。
ツートップじゃん。 269日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:00:57.69
>>264
最近の子供はポケモンやってるから、その知能テストは、幼稚園児向けだろw 270日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:01:39.64
キナイコシは無職wwwww
271日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:01:43.45
考古学的には九州北部(福岡)しかない。
272日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:01:50.91
>>858
>石斧が割れても、割れた石斧の刃は出土すれば石斧だって分かるぞ?
で、その割れた石斧の刃は、どこに捨てたんだい?
纏向遺跡では、石斧の刃は出てないよ?
矢板を持ち込んだというとかいうでたらめに加えて、
石斧の刃は遠くまで捨てにいったとか言い出すのかな?ww<
割れたり壊れたりしたら、再生困難だから、地面やゴミ捨て場に捨てられ、
石垣や土手などの補強材などに使われる事があるが、
結局は風化して、石ころや砂になってしまう。 273日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:02:12.62
お詫び
キナイコシの孫です
うちのお爺ちゃんが、ご迷惑をおかけしてます。
家族でも困っています
精神病棟に入れようと思いますので
もう少し我慢してください
274日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:14:33.30
>>859
>>畿内説は年代前倒し詐欺。<
>だという根拠は? なければ単なる中傷だ<
年代決定の根本的な根拠は、結局は、
考古では紀年土器や紀年鏡や漢委奴國王印などしかなく、大部分は文献に頼るしかなく、
卑弥呼の墓が「冢」である事や、
壹與や西晋武帝に天円地方の前方後円墳思想を学んだ事などしかなく、
考古の所謂「編年」論は、文献記載実態の補完的穴埋め的な事にしかならない。
だから、「大和の前方後円墳の石塚が3世紀末」という定点が与えられるのだ。 275日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:15:10.17
>>250
奈良(出土点数4w)を1とした場合、
福岡100倍
大分60倍
宮崎25倍
熊本85倍
山口25倍
岡山26倍←吉備は支配下じゃなかったの?www
京都27倍
大阪10倍←狗奴国の狗故智比狗(河内彦)??卑弥呼惨敗?www
南関東36倍←頭越しの僻地なのに?おやおや?w
最後に、もう一回
奈良…4 w 276日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:17:55.25
>>267
>つまりマキムクの土壌は鉄が溶けにくいと言っているようなもんじゃん
と思う理由は? 277日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:20:17.82
九州王朝が史実(大和は奥津城)と判明した今、畿内説やヤマト王権は、皇室公認のパラレルヒストリーとして楽しめば、良いな。。。
278日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:23:28.10
>>274
それ、あなた個人の考えで
他の人は認めてくれてないよね? 279日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:26:19.60
>>271
>考古学的には九州北部(福岡)しかない。
何故そう主張する考古学者がいないの? 280日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:28:14.66
質問
Q.畿内説の畿内とゎ、何世紀の畿内でしょうか?
281日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:32:57.77
>>275
そういう比較に意味がないって何故理解できないのかな
地域を超えた文化の斉一化が進む以前は、何を副葬するかは各地の文化によって違いがあったし
貴重な資源を乱雑に放置するような文化も全国一様ではない
腐食の進みにくい環境条件も各地バラバラ
元データの時代区分も調査者によってバラバラ
その統計、意味あります? 282日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:33:09.01
畿内説をイジリ倒すスレ、、、
ま、とっくに倒れて墓に入ってはいるが。
283日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:35:32.87
>>280
卑弥呼の邪馬台国の500年後、8世紀以降です。 284日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:38:25.68
>>867
>福岡平野の任意の場所に、南北約1.5km、東西約2kmの範囲をとって、
さらにそのうちの5%の面積だけを発掘して、どれだけの鉄器が出てくると思う?
たったこれだけの発掘で、
とか
とか
ほかにも鉄鍛冶跡とか出ているんだから、十分すぎると思うぞww <
おや?、「南→東」などの嘘つきだましの類スレ主が、
またどこかからの画像を引っ張って来た様だな。
しかし、確か弥生時代の奈良県は鉄器は4つであった筈だ。
そうすると、この画像は前方後円墳時代の出土であった可能性もある訳だ。
なんと言っても、類スレ主らは、「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師だから、
信用ならん。 285日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:39:58.35
キナイコシはこのスレでは偉そうに書き込みしているが、実は無職www
286日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:40:04.16
287日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:40:29.21
皇室、宮内庁、文科省、考古学界、マスコミ、国家総動員の嘘八百、「畿内」説!w
288日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:43:15.28
纏向は鉄を入手できない後進地域
食料も乏しく、カエルまで食べていた
まさに貧困にあえぐ寒村w
289日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:45:53.38
>>287
血税で維持しながら天皇陵古墳は発掘させず、福岡平野の発掘成果>>284はスルー、纏向遺跡だけを大々的に一面報道www 290日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:50:22.31
>>224
飯倉遺跡の鉄滓が出る住居は6世紀の須恵器が多く出ている 291日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:51:04.92
九州(八方位の中心)とは、その国の王がいる場所と言う意味。
292日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:52:04.87
>>278
あなたはあなた個人の考えをどれだけこのスレで振りまいてきましたか? 293日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:54:21.12
>>289
印象操作だよ、印象操作w それで国民はイチコロ。
太平洋戦争末期の一億玉砕作戦に突入していった図式と全く同じw 294日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:55:02.58
いくらキナイコシが偉そうに書き込みしても
キナイコシが惨めな無職のゴミだという事実は変わらないw
295日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:55:48.49
「その(弥生)遺跡からは須恵器が出ている」←「畿内」説の常套句www
296日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:57:20.20
>>291
>九州(八方位の中心)とは、その国の王がいる場所と言う意味。
それ。嘘つきすぎ 297日本@名無史さん2019/12/03(火) 09:58:24.38
298日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:00:38.47
>>260
確かに、奥山は纏向の土壌は鉄が溶けにくいと
いったな!
あとで、誰もそんなこと言って無いと嘘ついたな!
いつも、嘘をばら撒き、後で恥をかいている自覚もない
病院へ行け^_^ 299日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:02:39.39
>>868
>だから何? 伐採用石斧が無いでしょ
石器は石鏃と収穫用石器が結構後まで残る 採掘用石斧も残る
伐採用石斧は中期止まり<
おや?類スレ主が、これまで「石器はなかった」と強硬に言い張っていたのに、
突然、「結構後まで残る」と言い換え出したね。
何せ、「南→東」などの嘘つきだましの大和説詐欺師仲間だからなあ。
また、伐採用石斧は、結構大きくて、しみ込んだ水が凍ってひびが入ったりして、
割れやすく、割れたら使い物にならず、捨てられて残り難いもの。 300日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:05:08.84
九「州」とは、八方の中心=皇帝(>王)がいるという意味。
cf. 十国峠、三国ヶ丘
301日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:05:28.58
>>287
>皇室、宮内庁、文科省、考古学界、マスコミ、国家総動員の嘘八百、「畿内」説!w
天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
それが卑弥呼の係累・末裔で困るのは、誰々か・・・ 302日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:10:47.85
>>870
>1発掘調査報告(150回〜159回)/桜井市ホームページ
土器以外には太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品、馬歯、円筒埴輪、盾形埴輪、不明形象埴輪が発見されました。
2奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[常設展示案内/弥生時代]
唐古・鍵遺跡 伐採・加工用石斧. 弓(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵)<
待てよ。
馬や円筒埴輪などは、倭人伝にも載っていない事になるから、
卑弥呼の時代ではなく、4世紀頃のものになるではないか。
そうすると、太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品も、4世紀頃のものになり、
石斧が4世紀まで使われていた、という事になるではないか。 303日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:14:47.05
>>295
弥生時代は日本に時代区分だけれども
北部九州は絶滅したマレー系首狩人種時代があるので
注意して分類しなければならない 304日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:24:54.86
>>226
>九州倭国の東征軍が「鉄器」を持ち込んでくるまでは
(博多制圧派遣軍が大和に凱旋して戦利品の鉄器を持ち込んでくるまでは)じゃないの? 305日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:27:08.04
>>286
>Q.九州説の九州とは、何世紀の九州?
とうぜん、九州も8世紀の好字令による「筑紫」命名以降! @阿波 306日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:39:45.11
>1発掘調査報告(150回〜159回)/桜井市ホームページ
>土器以外には・・、馬歯、円筒埴輪
馬が導入されて以降の遺跡じゃないか、、、
307日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:40:17.77
>>241
飯倉と纏向の土壌とを科学的に比較しないと意味のない反論 308日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:53:55.37
>>307
はあ?
飯倉Dが砂質土なのも纏向が粘土質なのも
わかってんでしょ?
何言ってるの 309日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:57:03.54
奥山が可哀そうになってきた
助言
もう書き込むな、馬鹿にされるだけだ
310日本@名無史さん2019/12/03(火) 10:59:32.83
>>306
九州説は白痴そのもの
「弥生中期から鎌倉期にかけての土器片が出土しました。
これらは、近辺の集落から洪水によって流されてきたものと思われます。」
こんな簡単な日本語が理解できない脳 311日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:00:23.26
>>309
九州説のおばかさん
素直に「もう虐めないで」と泣いて頼めよ 312日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:02:43.01
>>300
>九「州」とは、八方の中心=皇帝(>王)がいるという意味。
九州説さん、もう捏造やめなよ
恥かくだけだよ 313日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:03:57.23
>>299
>おや?類スレ主が、これまで「石器はなかった」と強硬に言い張っていたのに、
九州説はいくら言われても捏造をやめない
異常である 314日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:06:11.77
>>298
>確かに、奥山は纏向の土壌は鉄が溶けにくいと
>いったな!
>あとで、誰もそんなこと言って無いと嘘ついたな!
証拠は?
また捏造? 315日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:10:42.49
>>287
>皇室、宮内庁、文科省、考古学界、マスコミ、国家総動員の嘘八百、「畿内」説!w
天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
皇室・皇族が卑弥呼の係累・末裔で困るのは、誰々か・・・ 316日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:11:31.56
>1発掘調査報告(150回〜159回)/桜井市ホームページ
>土器以外には・・、馬歯、円筒埴輪
なーんだ、馬が導入されて以降の遺跡じゃないか、、、
317日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:18:32.92
>>905
おいおい
大和説の致命的欠陥は、「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
時系列の感覚が無いことだよ
それじゃ歴史を語るの、無理だろ 318日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:21:58.74
>>317
このように露骨な嘘をかく九州説が
信用されなくなるのは理の当然 319日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:26:46.52
>>315
>天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
日向ってどこ? @阿波 320日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:26:50.93
>>316
そりゃ織田小学校校舎建て替えのために調査した
織田家の芝村藩陣屋跡だからな 321日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:29:44.99
322日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:45:45.93
>>318
畿内説が言うには、卑弥呼の時代にすでに馬がいて、遺跡に馬歯を残した・・・
時系列の感覚が鈍いなあ、
これじゃ歴史を語るのは無理無茶だろ 、 323日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:48:58.27
>>322
>畿内説が言うには、卑弥呼の時代にすでに馬がいて、遺跡に馬歯を残した・・・
九州説がまた捏造
病気ですね 324日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:51:20.98
九州説の武器は捏造と史料珍解釈だけだからね
325日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:51:34.39
いくらわめいてみてもキナイコシが無職であることに変わりはない
無職キナイコシwww
326日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:52:12.44
>>324
>九州説の武器は捏造と史料珍解釈だけだからね
どっちもどっち だと、何度言えばw @阿波 327日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:54:14.67
奥山先生は無職だから365日朝から晩まで5chに書き込みができるんですね
ようやく謎がとけました
328日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:57:24.66
奥山先生は本来ならば就職口獲得のために論文をたくさん書かないといけないに
そのご自身の論文執筆の時間を削って邪馬台国畿内説のために日夜5chで奮闘しておられる
なんという立派なお方なのだろうか!!
329日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:57:48.17
九州説はまたブーメランをなげて自傷行為に走った
330日本@名無史さん2019/12/03(火) 11:59:17.08
>>329
無職のキナイコシがそんなこと書いてもただの負け惜しみにしか聞こえんなwwwww
キナイコシ無職www 惨めwwwww 331日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:00:06.81
弥生後期後半・終末期〜古墳初頭頃には、物づくりの分業化が進んだらしい。
例えば、土器をつくる工人が移動して各地で土器をつくり、在地の需要を満たした。
とすれば、社会全般も分業化が進んだことが推測されるので、山の中で大木を伐採する木こり集団が存在した可能性もある。
彼らは弥生後期の間に大型石斧から鉄斧への転換を済ましており、弥生終末期には伐採用石斧はすたれていた。
しかし鉄器過疎であった近江・大和以東においては、この木こり集団が切り倒した大木から丸太をつくり、丸太から板などをつくる工人集団は従来の石器の工具をまだ用いており、纏向大溝の矢板などは石器で作られたという構図を描くこともできる。
いずれにしても、在地部族とは別の移動する工人集団がすでに成立していた可能性は高いのではないか。
332日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:08:24.02
>>930
>弥生終末直前まで石器で伐採してたとか思う根拠はなんだ?<
「斧」はある意味、人類の必需品であり、
石斧から鉄斧への変換があったとしても、両方が重複時期がある事があっても、
長期間断絶する事がないもの。
つまり、纏向においては、
断続する事があり得ず、混合使用時期があったとしても、
東征毛人五十五國が来た直前までは、石斧が使われていた、という可能性が高い。 333日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:12:46.57
卑弥呼って仏教の坊主らみたいなんとなんか関係ある?
日本の古代の記録はま〜残った記録みたいなんを寺院で漁って見つかったら歴史的事実〜!みたいなんやけ
文字記録そこしかないの
334日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:14:12.76
だから韓国あたりから僧らが来たとしよ〜
その寺院の設立年代を調べて検証するしかないの
(^O^)
335日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:16:05.70
秋津中西遺跡の現地説明会、誰か行った?
336日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:16:30.38
奥山君にマジメにレスするけど、就職口欲しいなら5chで油売ってないで論文でも書けよ
奥山君が5chに張り付いているのは大学受験生が勉強しないといけないのに、
ついついスマホやswitchでゲームを始めてしまうのと同じような感覚なんだとは思うけど、
はっきり言わせてもらうとただの逃避行動にしか見えない
奥山君が5chに張り付いて他説をこき下ろしているのを知っている人は学会内に何人もいる
こんな気狂じみたことをしている人を雇う大学、研究所があると思うのか?
337日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:19:07.63
338日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:19:28.33
>>308
それどこに書いてるんだよ
雨量も福岡の方が多いんだから、それも計算に入れて年率で何パーセント違うのか 339日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:20:40.43
九州には中西遺跡よりもはるかにデカイ水田の遺跡が山のように出てるんだろうなあ。
340日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:22:37.69
>>308
そもそも君は鉄鏃は100年もすれば溶けると
いうのが持論だろ
何故石室にも入ってない鉄鏃が1800年間溶けなかったのか 341日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:22:39.39
>>321
織田氏の祖は藤原信昌
越前劔神社に賦課する庄官
阿波は忌部の部民 342日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:25:47.10
>>341
「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。
倭人とは「忌部一族」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 343日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:26:25.20
>>328
内容が妄想過ぎて100回もリジェクトされたら
そりゃ5chに逃げるだろ 344日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:26:47.60
>>328
つまり未投稿の奥山論文の下書きが、このスレのテンプレだったということか、、、
忖度・ゴマすりだらけ、、、 没。 345日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:30:33.57
>>344
だから300回リジェクトされたんだって 346日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:31:20.52
>>341
「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。
ここでいう「忌部一族」とは、衰退した平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
倭人とは「忌部一族」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 347日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:31:21.92
>>343
思い込みが激しすぎて科学的ではないと評価されてしまうんだろう
キナイコシは考古学じゃなくて文学か史学やってた方が良かったかもね
家内が国文学者なんだけど、端から見ると妄想膨らましまくりだからねw 348日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:34:23.92
349日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:36:09.98
>>347
キナイコシは学者にはなれないよ
よくて妄想全開のラノベ作家 350日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:41:55.57
>>346
阿波はボロ布を作って暮らしていたので頭脳集団ではない 351日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:44:13.87
無職キナイコシwww
352日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:46:03.88
キナイコシの学会発表w
キ「3世紀にはカエルの骨を用いた纏向祭祀によりヤマトが日本を統一しており」
一同「クスクス(笑っちゃだめだw)」
キ「纏向では弥生時代の鉄器が見つかりませんが全て溶けたからだと考えられます」
一同「ゲラゲラ。笑ってはいけない学会発表スペシャルwww」
353日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:47:46.74
>>350
>阿波はボロ布を作って暮らしていたので頭脳集団ではない
阿波はボロ布以外にも、君がうらやむ「水銀朱」や「鉄器」や「勾玉」」や「丸底軽量薄型土器」なども作ってるんだけど? ついでに「前方後円墳」もね。 わははははは @阿波 354日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:47:58.38
>>348
調査報告書
地山が砂質土、二次堆積がローム質で
どちらも鉄の腐食が少ない 355日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:49:10.77
>>349
そんなふうに具体的指摘のできない九州説が
学問に向かないのさ 356日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:51:58.32
>>354
>調査報告書
それのどこに書いてるんだよ
雨量も福岡の方が多いんだから、それも計算に入れて年率で纏向と何パーセント違うのか 357日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:55:18.75
>>354
うむ、畿内では鉄が溶けやすいと言うキナイコシの意見に対する、具体的かつ妥当な批判だな。
これでもうキナイコシの主張にはほぼ根拠がない。
まあ、纒向など、はじめから無理筋だったんだよ。
諦めるしかない。 358日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:56:06.37
>>356
マキムクでは鉄が溶けやすいわけではないということだろ? 359日本@名無史さん2019/12/03(火) 12:57:18.30
>>944
>>伐採用石斧が弥生中期止まりってハッキリ書いてある論文だろう<
>その論文の165pの11行目あたりから25行目あたりまで読んでみるんだな。
石斧は古墳時代でも使っているくらいだ。
どこもかしこも一律に中期で使わなくなったなんてことはあり得ん。
鉄斧が普及してくるまでは、石斧を使うのは当然だわ。
地域差があるんだよ。<
成程。 360日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:00:14.07
>>353
辰砂を掘るのに使うのは頭より現地の住民の肉体
勾玉は硬玉のヒスイに細い穴をあけるのが難しい
阿波のはそこらへんの石 361日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:02:50.44
>>352
「纏向における弥生時代の鉄器は他の地域と比べて出土数が少ないが、今後の発掘調査による成果が待たれる」
とでも言ってりゃいいのに、キナイコシの場合は
「鉄は全部溶けただけ!普通は全部溶ける!!鉄はたくさんあったはず!!!」
だからなあw
文学者や史学者がこんなこと言っているならまだいいけど、考古学者がこんなこと言ってちゃダメだろ
自分では科学的、学術的な見解だと思っているみたいだが、先入観が強すぎておおよそ学術的とは言えんな 362日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:03:07.71
>>358
証拠無しで飯倉が砂地で鉄が溶けにくいと言ったのか 363日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:05:03.36
今後の発掘調査による成果と言ってもなあ、あれだけ(200回以上)掘ってダメなんだもの。
建物はそこそこ出たから、掘り足りないということもなさそうだ。
もう纒向に卑弥呼の王城の影を追い求めるのは無理だよ。
364日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:05:55.69
365日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:06:58.95
纒向宮の本殿に相当する棟持柱の建物まで出たが、鉄器はないし、千人の奴婢が働く場所もない。
魏志倭人伝に書かれた楼閣も柵もない(玉垣はあった)。
366日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:07:53.41
>>360
>勾玉は硬玉のヒスイに細い穴をあけるのが難しい
「蓮華谷古墳群(U)二号墳」 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14121
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上 で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は?製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。 @阿波 367日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:09:15.06
368日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:09:31.35
まだ同じ話をしているの?
それにしても『聖化 日神 』なども、
ほんとーに、おかしな話ばかりでしょ?
松傾・・・傾いた松の木、なぜ知っているんだと思う?
369日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:10:52.10
>>365
>纒向宮の本殿に相当する棟持柱の建物まで出たが、鉄器はないし、千人の奴婢が働く場所もない。
ないって証拠は? 370日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:12:06.87
キュウリの葉、葱の華・・・、
むかーしの写真なんだけど、傾いた松の木のw家の写真w
ホンモノなんだと言っているのに。
371日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:13:34.09
天帝、仏教・・・神仙・・・、・・・、?何なんだろう。
372日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:16:45.07
>>369
今後見つからないという断定はもちろんできないが、今のところ見つかってないだろ?
今後の発掘調査でいろいろ成果があるといいね
このスレの参加者全員で奥山先生の今後のご活躍を期待しているよ 373日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:20:42.32
>>367
阿波では硬玉は僅かしか採れないから
硬玉が多く採れるところで発達した技術をもった工人が
中国産辰砂を持った辰砂鉱山管理の親方(出雲か北陸)のところに招聘されたと考えられる 374日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:21:25.07
>>372
つまり九州説はまた、証拠もないのに決め付けてるんだね? 375日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:23:34.74
>>374
まだ見つかってないけど頑張って見つけてね、と励ましてやってんのに、何その言い方?ひどくね? 376日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:25:16.25
何事も根拠なく決め付けるのが九州説のやりかただよ
思い込みが全て
畿内説が奥山一人きりとかいうのと同じだ
失笑買うだけ
377日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:26:39.20
378日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:29:47.03
このやりとりいくらなんでも人格疑うな。キナイコシが無職なのもうなづける
369 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2019/12/03(火) 13:10:52.10
>>365
>纒向宮の本殿に相当する棟持柱の建物まで出たが、鉄器はないし、千人の奴婢が働く場所もない。
ないって証拠は?
372 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2019/12/03(火) 13:16:45.07
>>369
今後見つからないという断定はもちろんできないが、今のところ見つかってないだろ?
今後の発掘調査でいろいろ成果があるといいね
このスレの参加者全員で奥山先生の今後のご活躍を期待しているよ
374 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2019/12/03(火) 13:21:25.07
>>372
つまり九州説はまた、証拠もないのに決め付けてるんだね?
375 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2019/12/03(火) 13:23:34.74
>>374
まだ見つかってないけど頑張って見つけてね、と励ましてやってんのに、何その言い方?ひどくね? 379日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:30:19.46
魏志倭人伝時代についての討論が、活発化しているのではないのかな。。。
380日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:30:49.08
>>337
>6行目から作り話
纏向大溝の矢板が石器で作られた可能性が高いことから想定したことであって、まったくの作り話とも言い難い。
大和一帯を移動する木こり集団が鉄斧で森の樹を伐採し、かれらが移動して行ったあと、在地の工人らがその大木を石器で丸太にし、また板などを作ったという構図はあり得るのでは。 381日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:31:37.97
どのような、物事についての討論が、実行されているのかを知るために、スレッドを読む必要はあるのだろうか、、、
382日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:33:51.17
>>381
僕達は、僕達の研究を進行させながら、現在から未来に続くスレッドに発表される意見を読むことを、楽しめば良いのではないのかな。。。 383日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:35:15.86
系図などの話も、本当の話なんじゃないのか?
となってきたでしょ。
あと、いつ頃の話なんだろう、王母〜龍宮〜寒いな・・・?
このような画、詩(文)など。
384日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:35:29.91
僕達は魏志倭人伝時代についての研究と並行して、Γ関数の研究をしていたのだったな。。。
385日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:37:13.24
九州説だけどさ、纒向があまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
纒向の建物は神社の建築様式そのものであり、あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが貴人が住む本殿の最大の特徴だ。
だけれども、貴人は一人だけだった。
家臣に訓示を述べる大型建物の拝殿はあっても、他の貴人達を迎える構造にはなっていない。
伊勢遺跡は同じような宮がいくつも環状に配置されており、首長層の会議に使える規模だった。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人、物部氏の一人が駐在していたんだよ。
まあ、それが後に崇神天皇と呼ばれる人物でも構わないけどね。
どうせ当時の大和の天皇家は地方政権だから。
せっかくの大和王権の発症を示す遺跡に邪馬台国を無理やり絡めてミソをつけたのは誰の責任だ?
386日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:38:17.85
キナイコシがいくら九州説を貶してもキナイコシが無職であるという事実は消えないし変わらない
無職キナイコシwwwwww
387日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:40:21.77
>>384
複素空間上において、どのような図形が浮かぶのかを楽しんでいたのだったな。。。 388日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:41:49.18
あの戸籍などの話も本当の話なのでは?となってきたでしょ、
盗み見たり、家系図も勝手に作ったり?売り買い?
389日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:42:49.53
336 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2019/12/03(火) 12:16:30.38
奥山君にマジメにレスするけど、就職口欲しいなら5chで油売ってないで論文でも書けよ
奥山君が5chに張り付いているのは大学受験生が勉強しないといけないのに、
ついついスマホやswitchでゲームを始めてしまうのと同じような感覚なんだとは思うけど、
はっきり言わせてもらうとただの逃避行動にしか見えない
奥山君が5chに張り付いて他説をこき下ろしているのを知っている人は学会内に何人もいる
こんな気狂じみたことをしている人を雇う大学、研究所があると思うのか?
390日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:43:55.75
>>969
>「伐採 ・製材用の 磨製石斧A類は後期まで わずかに残存すると把握される。」
弥生後期最終段階・終末直前で、伐採 ・製材用の 磨製石斧が大々的に活躍しましたって主張が
絵空事だとわかるだろ、逆にさ<
違うな。
九州倭国の国生み神話期や神武東征期頃は、まだナガスネヒコに負ける位だから、
倭国も鉄鏃を持っていたのか?も不明で、大和も鉄鏃がなかったんだろうが、
しかし、その後の東征は勝ち戦ばっかり?であったようだから、
九州倭国は、鉄鏃は保持しており、卑弥呼の頃には当然鉄鏃があり、
そして、その後の東征軍が大和に入って3世紀末に石塚に葬られ、
ホケノでようやく鉄鏃を副葬出来るようになった。
そして、「斧」は生活用が中心であり、大和などはずっと石斧が中心であり、
鉄鉱石そのものが知らず手に入らず、倭国の鉄鏃を眺めているだけであり、
東征軍支配が始まってから、鉄鉱石や材料鉄が入るようになって、
生活用品としての「鉄斧」も造られるようになったんだろう、という事なの。
つまり大和説学者らは、「南→東」などの嘘吐き騙しと同じように、
大和における「石斧」や「鉄斧」の年代やその交代期を、
300年位古くずらすインチキをやって来ていたの。 391日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:44:49.80
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
392日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:46:51.42
天帝より授かり〜・・・聖化、
すべて家の話だ・・・凄いだろうwみたいな事にしたい人がいたりするのかな?
ニセの系図などを作ったり、繋げたり。
393日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:48:05.85
パーソナルコンピューターで動作する作図のプログラムが、発達したのではないのかな。。。
394日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:51:37.74
(ドンバ)河童、河伯・・・の話も出てくるし、
家の写真と同じ、傾いた松の木w
395日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:52:09.06
>>287
>皇室、宮内庁、文科省、考古学界、マスコミ、国家総動員の嘘八百、「畿内」説!w
天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
卑弥呼の係累・末裔が皇室・皇族になったで困るのは、誰々か・・・ 396日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:55:47.73
パーソナルコンピューターで動作する、魏志倭人伝時代の謎を解くプログラムが、発達したので、邪馬台国畿内説が完全に破綻した可能性が高いな。。。
397日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:58:10.49
出雲大社という大社は、大国主神という神の、怨恨に満ちた死体や魂を、封印するための建物だったのではないのかな、、、
398日本@名無史さん2019/12/03(火) 13:58:58.42
同じことばかり言い続けてるだけやん
399日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:02:56.08
巻向の掘っ立て柱は、銅鐸王国の倉庫の柱なのだろうか、、、
それとも、銅鐸王家の怨恨に満ちた死体や魂を、封印するための建物の柱なのだろうか、、、
それとも、相撲部屋の柱なのだろうか。。。
400日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:04:50.05
400
401日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:12:28.24
>>380
>纏向大溝の矢板が石器で作られた可能性が高いことから想定したことであって、まったくの作り話とも言い難い。
高くないから、ただの作り話だな 402日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:22:47.07
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
纏向のように都市や古墳を建造する余裕はなかったと考えられる。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』
ということは?
北部九州で畿内式土器が出土するのは、非難民の移動経路を示しているだけであり、
卑弥呼は銅鐸文化を否定する側(=銅鉾文化圏)の人物だったということだ。
銅鉾/銅鐸分布:
<結論>
纏向は倭国の一部ではなく、女王国の東にあった倭種の国の一つであると考えられる。 403日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:24:09.38
石器で作られた纏向大溝の矢板は、元々は、何百年もの間、次々に建築された銅鐸王国の建物の床材として、繰り返し転用された床材が、建物の床として使用するには、小汚くなったので、終の役目として、矢板として転用された物なのだったな。。。
404日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:27:54.76
矢板で護岸されている大溝の長さ1mにつき、両側合わせて、1坪程の床材なのだったね。。。
405日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:28:59.10
矢板で護岸されていた部分の大溝の長さは、何メートルなのだろうか、、、
406日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:30:37.83
巻向の掘っ立て柱は、銅鐸王国の倉庫の柱なのだろうか、、、
それとも、銅鐸王家の怨恨に満ちた死体や魂を、封印するための建物の柱なのだろうか、、、
それとも、相撲部屋の柱なのだろうか。。。
407日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:31:30.26
おい、奥山氏、はっけよい。。。
408日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:33:35.63
偶数柱間の建物Dとは、何者が建築したDなのだろうか、、、
409日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:34:30.09
年末も近づき、仕事が忙しくなってきたので、奥山の相手をしている、暇がなくなってきたな。。。
410日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:36:09.15
垂仁天皇が、相撲大会を開催したのではなかったのかな。
411日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:36:18.84
やっぱ厳しいか〜
寺院ないから記録見つかるわけないよな
412日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:37:37.62
誰かが、奧山氏の相手をしてあげれば、奧山氏が自殺体になることを防止できるのだったな。。。
413日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:40:26.57
矢板で護岸されていた部分がはっきりしている大溝の長さは、矢板で護岸されていなかった部分がはっきりしている大溝の長さの、何倍なのだろうか。。。
414日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:43:30.48
無職キナイコシの元気がないな
415日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:49:11.20
1+2+3+4+5+6+・・・=
416日本@名無史さん2019/12/03(火) 14:53:04.85
>>403
今のところ、2 、3軒程の民家の床材があれば、足りるのではないのかな。。。 417日本@名無史さん2019/12/03(火) 15:05:14.80
418日本@名無史さん2019/12/03(火) 15:07:47.54
邪馬台国畿内説には、証拠が全く無いのだったね。
419日本@名無史さん2019/12/03(火) 15:11:39.29
奥山はパンチを浴び続けどんどん脳が劣化しているよだ。
タコ八郎
420日本@名無史さん2019/12/03(火) 15:14:02.70
ボケ老人は 昼寝の最中だな
421日本@名無史さん2019/12/03(火) 15:15:28.21
いや ボケ老人は空き缶拾いに行っているダニ
422日本@名無史さん2019/12/03(火) 15:44:18.91
>>401
>ただの作り話だな
纏向の矢板の写真をみれば、鉄器で削ったとみえる跡はない。
一方、矢板自体は縄文時代からあるので、矢板を石器で作って来たことは明らか。
で、2世紀末〜3世紀前半の大和は、鉄の出土量からして鉄器過疎地帯が続いていたことが分かっており、
鉄のない大和に設置された矢板は石器で作られたと考えるのが自然だと言える。 423日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:03:22.76
>>422
キナイコシが顔真っ赤にして
「矢板は鉄器でしか作れない。九州説は石器が溶けたとでも言うのか?」
「纏向には石器は見つかっていない。九州説はデマカセばかり」
と言いにくるぞw
キナイコシは本気でアカデミックなポストが欲しいと思っているなら、先入観なしで物事を見つめる癖をつけないと無理
「纏向は邪馬台国の王都」という発想がまずあって、それに合わせて出土した史料を都合よく解釈していこうとしていたのでは、
どこからも声はかからない
だいぶ前に見たテレビでも考古学者の人が
「私はこれが出たからこれで決まり、のような考え方はしない」
と言ってたぞ。キナイコシにはこの言葉の意味をよくかみしめるべき 424日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:04:36.40
425日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:09:59.82
いずれにせよ、このスレのキナイコシの書き込みを見る限りでは、当分無職のままやろなwww
426日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:10:27.39
>>193の訂正
>>奈良には4世紀以降まで待たなければ首長墓が現れない。<
これへの否定で、既にアンチ科学だからなぁ、大和脳は
現代考古学の標準編年なんて、全て、
「南→東」などの嘘吐き騙し根拠にする、というインチキ大和説学者らの編年なのに、
それらををすべて肯定讃美しないと気が済まないのが大和説
そして、全く違う編年による九州説学者らの年代に対しては、
都合のいいところだけ利用するというチェリーピッキングをしている。
まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しのアンチ科学の大和説者とは、
科学の言葉では通じ合えないってことだ 427日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:40:39.90
なんで魏志倭人伝と接点がない畿内だと思い込んでしまったのかねえ。
428日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:48:32.25
>>422
伐採用の大型石斧は弥生後期には鉄斧と入れ替わるようだが、加工用の片刃石斧は後期にはあちこちで出土している。
桜井市の弥生後期の大福遺跡では加工用石斧が出ている。
これらの加工用石斧はところによっては古墳時代まで使われているようだ。
したがって、弥生後期に続く終末期初頭に着工された纏向大溝に設置されている矢板には鉄器痕がないことからして、こうした加工用石斧で粗成形され、表面は砥石で擦り削られた可能性が高いと言える。
この矢板の製作は、山林の中で大木を伐採した木こり集団とはまた別の在地の加工集団によって作られたことも想定可能だ。
こうしたことから、2世紀末〜3世紀前半の大和は鉄器過疎地帯であって、鉄器があったとする考えに対しては否定的にならざるを得ないと言える。 429日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:49:46.81
陸行一月。ハイ論破。
九州説?はこの四文字で終了。
430日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:51:21.92
3cな径100余歩の古墳が九州のどこにある?
どこにもない。
はい論破。九州説?はこれで終了。
431日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:52:46.42
>>429
畿内説にとっての最後の砦はそれかw
九州どころか日本説終了だろw 432日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:54:15.38
>>429
伊都国は女王国以北、はい論破
この言葉で畿内説終了 433日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:54:19.95
>>430
里数の縮尺に合わせれば径100歩は25m程度だから祇園山などが候補にあがるw 434日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:54:24.75
博多湾を奴国2万戸で使われてしまったのに、
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸、
邪馬台国に匹敵する狗奴国を、
九州のどこに入れるのさ?
そんなもの入らん。九州説?はこれでも終了?
435日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:56:26.98
>>434
>邪馬台国に匹敵する狗奴国を、
>九州のどこに入れるのさ?
>博多湾を奴国2万戸で使われてしまったのに、
>投馬国5万戸、邪馬台国7万戸、
>邪馬台国に匹敵する狗奴国を、
>九州のどこに入れるのさ?
へー。じゃあ纒向に王都があったら七万戸は可能なの? 436日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:56:38.10
3cの博多湾は衰退を始めている。
そんな衰退国に、親魏倭王の称号を出す訳がない。
九州説?はこれでも終了。
437日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:57:29.22
>>436
纒向にはろくに鉄がない
纏向はこれでも終了 438日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:58:24.56
>>435
本州全部使えるだろが。
投馬国が出雲、畿内が邪馬台国、東海が狗奴国だ。
はい論破。九州説はこれで終了。 439日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:59:21.44
>>434
博多湾から時計回りの水行で邪馬台国
反時計回りで鹿児島
狗奴国は熊本
女王国は福岡~佐賀
博多から陸行一月でも邪馬台国には辿りつけるが、途中に狗奴国があるので水行した 440日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:59:45.61
毎日毎日このスレを荒らすだけが生き甲斐の九州説のジジイどもも、これで終了。
441日本@名無史さん2019/12/03(火) 16:59:59.77
>>438
それの意味がわからんのだが、なんで纒向に王都があったら本州全部使えて九州だと使えないんだろね?
自分の言っていることがおかしいことに気がつかないのか?バカじゃね?
だから無職なんだよwww 442日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:01:02.27
>>439
ダウト。
そんな大人口は九州には入りませんーん!
九州説は終了ーーー! 443日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:01:07.59
畿内は南じゃない。
糸冬
444日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:02:39.16
纏向説は妄想です
纏向は鉄を入手できない後進地域
食料にも乏しくカエルばかり食べていた
貧困にあえぐ寒村w
445日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:03:39.66
>>437
ダウト。鉄の出土は邪馬台国の比定に関係なし。
あればマシくらいの条件でしかない。
そんなものに頼っている時点で九州説は終了ーーー! 446日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:04:02.11
無職キナイコシwwww ミジメwwwwww
447日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:04:15.16
448日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:04:21.83
日本の遣唐使の言動が畿内説を否定しています。
<旧唐書より>※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる 449日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:04:54.87
>>445
>鉄の出土は邪馬台国の比定に関係なし
お前は纏向説ありきで考えているからそう思うだけ
常識人はそうは思わない 450日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:05:22.58
>>443
南は東。それがどうしようもない真実。
九州説は終了ーーー! 451日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:06:44.19
畿内説学者(松木氏)の見解
『初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。』
452日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:07:07.47
>>449
非常識はお前のこと。
毎日毎日このスレを荒らすだけが生き甲斐の自分自身を、異常だと自覚しろ。
異常者しか支持しない九州説は終了ーーー! 453日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:08:00.07
>>429
日本国内で、わざわざ船を降りてから一月も歩くような場所はない。 454日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:08:24.89
>>433
ダウト。そんな架空単位を持ち出す時点で、
九州説は終了ーーー! 455日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:08:34.69
456日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:09:09.09
>>430
里が1/5なのだから、歩もそうなんだろう。
平原遺跡でいいよ。 457日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:09:44.85
>>453
陸行一月は、邪馬台国が内陸のの盆地であることの証左。
はい!九州説は終了ーーー! 458日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:10:11.91
>>434
奴国は一国邑。
邪馬台国と投馬国は領域国家だろう。
ならば邪馬台国の内訳に奴国が含まれる。 459日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:10:20.89
>>456
だからそんな架空単位は存在しない。
九州説は終了ーーー! 460日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:11:04.99
>>458
そんな人口二重カウント詐欺は認められない。
九州説は終了ーーー! 461日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:11:08.55
>>440
最後は負け犬の遠吠えか?
畿内説はこれにて終了だな。 462日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:11:21.73
>>457
畿内説の場合でも陸行一月だと紀伊半島の先っぽより南だぞバーカw 463日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:12:13.05
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
464日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:13:04.06
小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」
465日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:13:36.61
>>459
ヤマト王権が、任那と筑紫の間の距離を2000余里と認識していたんだが?
崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」 466日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:15:34.47
魏志倭人伝によると、女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある。
はい畿内説終了。
467日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:16:21.49
>>461
また悪口だけか?
九州説は終了ーーー! 468日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:17:26.72
次は松傾か?w
469日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:17:41.96
>>462
出雲経由で日本海側から陸行一月。
はい論破。
九州説は終了ーーー! 470日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:18:13.69
キナイコシとは別のやつが来ているのかな?
471日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:20:34.05
>>469
出雲は博多から見て明らかに「東」である。
はい、畿内にたどり着く根拠崩壊ですね。
糸冬 472日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:21:12.51
>>466
意味不明。
とにかく九州説は終了ーーー! 473日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:23:10.56
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
纏向のように都市や古墳を建造する余裕はなかったと考えられる。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』
ということは?
北部九州で畿内式土器が出土するのは、非難民の移動経路を示しているだけであり、
卑弥呼は銅鐸文化を否定する側(=銅鉾文化圏)の人物だったということだ。
銅鉾/銅鐸分布:
<結論>
・畿内式土器の広がりは飢饉により、畿内民が各地へ移民した痕跡である。
・纏向は倭国の一部ではなく、女王国の東にあった倭種の国の一つである。
・卑弥呼は銅鐸文化圏の人物ではない。 474日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:23:15.70
キナイコシもアホだが、こいつも相当アホだ。
475日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:23:37.19
キナイコシが来ないとこのスレもつまらんな
キナイコシをバカにしてからかっているのが楽しいのに
476日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:27:33.29
>>474
今反論してる畿内説はキナイコシしか居ないぞw 477日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:32:59.77
纏向は銅鐸文化圏だろ
銅鉾/銅鐸分布:
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% 478日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:33:09.14
キナイコシ=奥山
狂ったか、
「九州説は終了」連呼しても
畿内説にプラスにならない
負け犬の遠吠えと思われるのが関の山
479日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:38:09.25
>>477
おお、土器の産地が見事に銅鐸文化圏に合致するんだなw 480日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:38:44.82
キナイコシはもとから少し狂っていたかもな。
まともに議論が噛み合わないコミュ障だったからな。
481日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:40:06.04
キナイコシは薬飲み終わったら松傾になって登場するはずw
482日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:40:22.35
>>453
>日本国内で、わざわざ船を降りてから一月も歩くような場所はない。
一月歩く場所がある。 @阿波 483日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:40:41.59
倭の王都(邪馬台国)は、銅矛文化圏の中心である福岡しかありえないだろ。
484日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:41:41.31
キナイコシは「投馬国は吉備」説じゃなかった?
こいつは出雲説だから別のやつじゃないか?
485日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:41:43.49
>>479
纏向は縄文系遺跡じゃないかとも言われてたね。 486日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:42:40.45
>>477
それらぜんぶ、「東阿波型土器」 @阿波 487日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:43:25.57
488日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:43:53.84
>>483
>倭の王都(邪馬台国)は、銅矛文化圏の中心である福岡しかありえないだろ。
いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 489日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:47:02.45
>>487
>残念だが阿波も銅鐸文化圏だw
倭国(阿波)は、銅鐸文化圏でもあり、銅剣・銅矛文化圏でもある。 銅鐸と銅剣・銅矛の発祥地なんだから、当然のこと! わははははは @阿波 490日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:47:49.46
>>488
じゃあ阿波も何か追加しろよ↓w
佐賀:吉野ヶ里遺跡
奈良:纏向遺跡
阿波: 491日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:52:11.53
そして、銅鐸文化圏を切り開いた半島人が九州島南部に流入し、狗奴国と呼ばれた。
下図の丸で囲まれている範囲が元銅鐸文化圏=狗奴国かもね。
湿潤耳垢:縄文系
乾燥耳垢:半島(ツングースク)系
492日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:52:51.15
奥山君
もう このスレ終わったね 畿内説のスレで亡くなった
他説批判を続けるようでは・・・・
テンプレが泣いている
741 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/28(木) 01:05:34.07>>75
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
なお、書き込みは
「「 邪馬台国畿内説に関係が有って 」」
根拠のある内容をお願いします。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 493日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:54:18.17
>>290
>飯倉遺跡の鉄滓が出る住居は6世紀の須恵器が多く出ている<
須恵器は、吉武高木や祇園山から既に出ており、
だから「6世紀の須恵器」と判定した考古学者(大和説者?)らがオカシイ、
という事になるだけ。 494日本@名無史さん2019/12/03(火) 17:55:44.83
495日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:00:36.19
>>494
何か復元した建造物など見栄えの良い写真でもあればいいんだけどなw 496日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:02:34.80
>>491
つまり出雲に国譲りを要求したのは半島人政権だったということか? 497日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:02:46.25
大型建物群 土壌 鉄
ここ数日で立て続けに恥をかけば、キナイコシの頭もおかしくなるよ
もう少し楽しむには
キナイコシは生かさず殺さずが鉄則
498日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:04:58.44
4棟で一式なのに大型建物「群」にはワロタなw
499日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:13:32.14
>>304
>>九州倭国の東征軍が「鉄器」を持ち込んでくるまでは <
>(博多制圧派遣軍が大和に凱旋して戦利品の鉄器を持ち込んでくるまでは)じゃないの? <
唐会庸倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って倭國は北部九州にあったのであり、
その倭國が、倭國王武の上表文に拠って「東征毛人五十五國」を説明しているんだから、
大和を「東征」しと征伐したのが九州倭國の東征軍であった、という事になるの。 500日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:14:43.55
>>492
同意
奥山が火の車なのだ・・
撃ち方止め・・・・・・・・・・・・・・・ 501日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:15:24.51
出雲は秋祭りをやるんだから稲作を伝えた弥生系国津神(地祇)。
それを征服した筑紫も弥生系海人族(天神)。
502日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:16:17.63
湿潤耳垢:弥生系「倭国」筑紫、出雲、越
乾燥耳垢:古墳時代以降に流入した半島(ツングースク)系「日本国」
503日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:16:24.70
今日も奥山説は一歩も進めずか
504日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:16:42.29
>>495
>何か復元した建造物など見栄えの良い写真でもあればいいんだけどなw
そんな、トンデモ説がするようなものはないよ。 わははははは @阿波 505日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:19:33.31
>>502
耳垢の違いについては、他の統計でもその図と同じ結果が出てたよ
確か乾燥耳垢率で京都が一位で近畿全てが上位にランクインしてたよ 506日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:23:02.16
>>428
橿原市一町遺跡の弥生後期層で磨製石斧の断片が出ているな。
石包丁、石槍なども出ている。
この磨製石斧の断片は、伐採用か加工用か不明であるが、実際に使われていたものだろう。
こうした流れをみると、加工用の石斧は後期にはまだ絶賛使用中だったことが分かるな。
一方、加工用鉄斧はまだなかったことが推測される…。 507日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:26:20.29
508日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:30:00.49
>>497
>キナイコシは生かさず殺さずが鉄則<
そうしてるつもりだが、一手で積まれるからしょうがないよ
もう少し、種をまいてからとどめをさすように心掛けるしかないな 509日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:31:50.76
510日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:32:57.36
511日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:35:09.94
キナイコシ何やってんのかな?
またニュー速行ってんのかな?
512日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:36:55.55
>>502
弥生系は銅鐸、銅矛の両方に跨っているのが特徴だね。
半島系の流入は卑弥呼より後だろう。 513日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:41:37.48
>>511
同一人物が常駐してるというのが妄想
九州説とは違うんだよ 514日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:50:30.33
>>310
>「弥生中期から鎌倉期にかけての土器片が出土しました。<
この「弥生中期から鎌倉期にかけて」も、
「南→東」などの嘘つきだましの大和説学者の「年代推定」。
>これらは、近辺の集落から洪水によって流されてきたものと思われます。」<
これも、嘘つきだましの大和説発掘学者の、
「・・・と思われます」という推定解釈文言。
>こんな簡単な日本語が理解できない脳<
史料事実の報告と、
その史料事実に対する「南→東などの嘘つき騙しの大和説学者の、
自己の解釈に拠る曲解内容」との、区別が付かない「類スレ主」の脳。 515日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:52:33.64
>>311
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のおばかさん
素直に「もう叱らないで」と泣いて頼めよ 516日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:52:51.53
>>499
>唐会庸倭国伝の「正北抵新羅」などによって倭国は北部九州にあったのであり
唐会要のその一文は「北限大海、西北接百済、正北抵新羅、南與越州相接」となっている。
倭国の南は中国の越と接していると書いてあることからすると、魏志倭人伝の地理観がベースとなっていることが分かる。
つまり、この地理観は3世紀前半の地理観であり、7世紀の倭国とは異なるものである。
7世紀の倭国は明らかに大和に政権が所在していて、当然九州には所在していない。
また、「東征毛人五十五国」は5世紀末の応神王朝雄略天皇の上表文の文言だから、これも難波の政権。
3世紀前半の倭国は確かに北部九州にあったが、その3世紀中頃に大和の政権が取って代わって、それ以来大和や難波に政権があった。
その3世紀中頃の墓がホケノ山。 517日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:53:43.63
>>312
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説さん、もう捏造やめなよ
恥かくだけだよ 518日本@名無史さん2019/12/03(火) 18:55:35.90
>>313
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
いくら言われても捏造をやめない
異常である 519日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:12:38.95
>>492
24時間 貼りついてる
奥山=キナイコシ=>>1
が自分のテンプレに責任持てないのだな 520日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:13:29.60
奥山君
もう このスレ終わったね 畿内説のスレで亡くなった
他説批判を続けるようでは・・・・
テンプレが泣いている
741 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/28(木) 01:05:34.07>>75
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
なお、書き込みは
「「 邪馬台国畿内説に関係が有って 」」
根拠のある内容をお願いします。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 521日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:14:13.49
>>290
また騙そうとして
鉄鏃などの鉄器は弥生土器のでた住居から見つかっている。 522日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:20:11.04
>>478
私もそう思います
テンプレの冒頭
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
スレ主の意思とはまったく違うスレになっている現状をスレ主はどう考えてるのだろうか? 523日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:24:37.43
524速報2019/12/03(火) 19:25:52.70
畿内説互助会から
SNSは関わらないようにの通達が流れました
525日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:29:29.26
つぶやき=奥山
となんとなく、気が付いてきた
気付くの遅かったかな
526日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:34:33.73
>>525
自分の犯行を被害者の自演と言い張る
アウンサン廟爆破した某北の国に似ている 527日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:36:25.09
>>498
>4棟で一式なのに大型建物「群」にはワロタなw<
その通りだが
スレ主が巻向に詳しくないくせに何故か巻向支援してるんどよな
宗教?パしり?アルバイト? 528日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:39:41.13
>>527
>4棟で一式なのに大型建物「群」にはワロタなw
大型建物を核にして4棟で一式の「群」が大型建物「群」で悪いのか?
主観の違いだろ 529日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:42:50.08
>>434
福岡市全部が奴国とか無茶過ぎるw
末盧国から糸島が500里
実距離は30km
伊都国から100里の奴国は糸島から6km
の早良平野だろ。 530奥山よ2019/12/03(火) 19:43:41.33
人気スレ 一位が目的なの?
それがあんたの生きがい???
生きがいとしたら、文句は言わないが、
どれだけ畿内説に迷惑をかけてるか考えたことあるの
531日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:50:44.07
>>509
加工用鉄斧があったら、石斧は使わんのとちゃう? 532日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:58:24.61
>>528
大型建物を含む建物群と呼ぶべき
大型建物群と呼べば普通は複数の大型建物が含まれるものと理解される
纏向を意図的にスゴいものに見せようとする意図を感じる表現法
これだから畿内説は世の中の人に信用されないのだろう
そのことも理解できないとしたらアホなのだろう 533日本@名無史さん2019/12/03(火) 19:58:47.85
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
534日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:01:47.42
>>532
>大型建物を含む建物群と呼ぶべき
その通り。 @阿波 535日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:03:13.22
>>528はアホだからいい歳して無職なんだろうなw 536日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:07:21.55
537日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:09:53.31
キウスに呆れた
538日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:09:54.33
>>513
人助け
ボランティア
いかに奥山の病気を治してやるかだなぁ 539日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:11:56.42
>>528
馬鹿 ばか 馬鹿
よっぽどスレ人気一位を保ちたいのか
馬鹿 馬鹿 馬鹿 540日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:14:26.23
◆FAQ 99
Q:纒向遺跡から鉄器が出ないのは、魏志の倭国の記述に合わない。
よって纏向は、魏志の倭国とは無関係の遺跡である。
A:正解
541日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:15:21.97
>>528
>大型建物を核にして4棟で一式の「群」が大型建物「群」で悪いのか?
主観の違いだろ<
じゃあテンプレ修正するなよ 542日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:25:11.57
奥山よ、もうあきらめてお前もGSOMIA延長しろよw
543日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:30:41.42
>>528
>大型建物を核にして4棟で一式の「群」が大型建物「群」で悪いのか?
>主観の違いだろ
こいつ本気でこう思ってんのか?
こんな言語感覚でよく文系やってたな。アホすぎるだろ
数学もできないみたいだし、国語苦手で英語と歴史で点数稼いでたパターンだったのかな 544日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:45:35.72
奥山氏は、理系の院から、出たことが誇りなのだから、あまり、その誇りまでを叩き潰さない方が良いのではないのかな。
545日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:48:48.05
>>544
>理系の院から
それは無いなw
せいぜい職訓上がりの理容院卒だなw 546日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:50:28.17
>>544
真実の究明のためには、叩き潰してしまった方が、良いよ。 547日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:52:12.12
>>546
>真実の究明のためには
もう、とっくに真実の究明はなされているよ。 「其山有丹」で! わははははは @阿波 548日本@名無史さん2019/12/03(火) 20:59:32.44
奥山氏は、奥山氏が所属している国家や、奥山氏が所属している民族や、奥山氏が邪馬台国畿内説を宣伝している目的が何であれ、真実を究明したいという欲望は、あるのだろうか、、
549日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:06:00.98
>>548
有ろうが無かろうが、もう、とっくに真実の究明はなされているよ。 「其山有丹」で! わははははは @阿波 550日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:21:24.72
邪馬台国は3世紀半ばの倭国大乱で九州の拠点を放逐されたあと亡命状態に
亡命後吉備に匿われる
交易上連携している東海勢力の尾張氏と河内の物部が呼応し、それぞれの拠点に近くかつ未開発の纏向に王族の新都市を建設
そのさなかに邪馬台国を継ぐ女王(トヨ)が逝去し、吉備からその亡骸を運び込み箸墓が作られる
吉備に移住していた旧邪馬台国の土師器技術者が埴輪を持ち込み古墳を飾った
ヤマト王権は天孫と物部親政から始まり古墳が大量に作られる
その後100年ほど経って土着化した天孫族はかつて滅ぼされた九州王権に対して攻め入り攻略
仲哀天皇の九州征伐はこの頃の説話
みたいな矛盾のない仮説が組めますな
551日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:27:11.91
うすうす感じてる人もいると思うけど
日本じゃなくて東南アジアでしょ。
552日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:28:20.17
>>530
個人攻撃といわれなき中傷専門って
九州説に自分がどれだけ泥塗ってると思う? 553日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:29:52.84
554日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:30:54.71
>>550
>みたいな矛盾のない仮説が組めますな
矛盾のない仮説も暇つぶしにはいいだろうが、もう、とっくに真実の究明はなされているよ。 「其山有丹」や「7万戸?の弥生集落遺跡群」で! わははははは @阿波 555日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:43:11.28
>>550
>みたいな矛盾のない仮説が組めますな
そういった仮設を組むのは、畿内や九州などのトンデモ信者の得意技だね。 @阿波 556日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:47:56.46
「水入り」になったのかな? 畿内と九州のへっぽこ相撲w わははははは @阿波
557日本@名無史さん2019/12/03(火) 21:51:27.30
>>543
なんでも自分の主観を押し通そうとする点が
九州説の病根だな 558日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:16:20.83
ここ数日の鉄論争はキナイコシの完敗で閉幕
559日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:22:15.39
キナイコシは釣り師としては一流なのは誰もが認めるところ
それを活かせる道に進めばいい
560日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:23:29.37
キナイコシは無理して苦手な歴史考古学をやらない方がいい
561日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:25:15.03
>>558
それ、具体的に言ってみ
妄想とわかるから 562日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:35:34.23
>>324
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
大和説者の武器は、史料事実の捏造と、史料の時系列無視の珍解釈と、
都合の良い文言のピックアップでの造作と、
それらの嘘で国民への騙し宣伝ばっかりだからね 563日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:35:48.54
畿内説互助会なるは、
長年の内部乱立・相抗伐暦年の結果、
Aの論説がBの説の足を引っ張り、そのBの説が今度はCの足を引っ張る形になっとる。
いわば「畿内説互伐会」だな。わはははは
564日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:38:06.54
>>329
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
今度はまたブーメランをなげて、
自傷行為に走った 565日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:40:47.67
>>561
副葬品じゃない住居跡でも鉄鏃残っとるやん
反論予想
1.纏向には住居跡が殆どないんだよw
だから鉄が溶けるのは当然
だが大集落だ
2.住居内に鉄を置くとか北部九州は鉄を甘やかし過ぎw
纏向は北部九州とは無縁な鉄野晒し文化 566日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:41:36.95
具体的な話がなにも無い
さすが妄想九州説
567日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:42:10.74
今や、釣り師が吊るされる恰好だな
わはははは
568日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:43:25.26
569日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:44:47.99
570日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:46:30.36
>>565
で?
それのどこが畿内説を論破してるんです? 571日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:46:43.07
>>568
古墳の副葬品じゃなくても住居跡に鉄鏃残っとるやん
ならわかるかw 572日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:47:40.73
573日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:48:16.69
>>569
反論つーより、その日本語が読めませんって素直な感想 574日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:48:54.05
575日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:49:26.45
>>355
「南→東」などの嘘吐き騙しのような、
明らかにウソになる大和説は、
学問に向かないのさ 576日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:49:28.93
577日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:50:30.42
>>573
すまんなw
ビール飲みながらスマホでテキトーに書き込んでるから
北部九州では古墳の副葬品じゃなくても住居跡にも鉄鏃残っとるやん 578日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:51:00.40
>>575
ウソだウソだと騒いでみても
証明できなきゃタダの愚痴 579日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:51:31.43
580日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:57:57.36
>>376
何事も史料根拠などがなく決め付けるのが大和説のやりかただよ
思い込みが全て
「畿内」とか「南→東」とかいうのと同じだ
失笑買うだけ 581日本@名無史さん2019/12/03(火) 22:59:44.47
>>579
鉄は特殊な環境下じゃなければ全て溶けるとか
言ってた奴がいただろw
そいつの反論予想
1.纏向には住居跡が殆どないんだよw
だから鉄が溶けるのは当然
だが大集落だ (キリッ
2.住居内に鉄を置くとか北部九州は鉄を甘やかし過ぎw
纏向は北部九州とは無縁な鉄野晒し文化 582日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:10:47.22
>>581
おまえ、言ってることが支離滅裂だぞ
さては九州説だな 583日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:15:14.90
>>557
まだ自分の言語感覚のバカさ加減に気がついていないらしい
お前それだと永久に無職だぞw 584日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:17:00.47
>>429
陸行一月は、郡から女王之所都までの行程の内の、陸行部分の所要日数。
ハイ論破。
大和説は、この四文字だけでも終了。 585日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:17:02.94
いくらキナイコシがわめいても
キナイコシが無職の負け組であるという事実は変わらないw
586日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:17:28.98
587日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:17:58.67
無職キナイコシwwwwww
588日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:20:32.67
鉄は全て溶けるw
バカ丸出しwww
589日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:21:38.02
>>430
3世紀の「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たし得る墓としては、
日本では唯一祇園山古墳がある。
はい論破。大和説はこれで終了。 590日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:25:27.50
巻向に鉄鏃やがない理由
周辺国が味方であり守護されていたから
鉄はその性質上使われることに特化した製品であり銅製品とは使用目的が違った
さらに巻向に開発や軍事を司る機能は無く誕生からすでに聖域化されていたから
これ以上の合理的理由がない
591日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:29:05.22
>>434
>博多湾を奴国2万戸で使われてしまったのに、<
奴国は、伊都国の東南百里に入口がある事になるから、日向峠西麓の平野部〜早良平野部。
>投馬国5万戸、邪馬台国7万戸、 邪馬台国に匹敵する狗奴国を、 九州のどこに入れるのさ?
そんなもの入らん。<
九州島内に入る。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説はこれでも終了。 592日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:29:24.51
>>590
纏向信者としてはそうだとうれしいだろうね
残念ながら単なる後進地域だった可能性もある 593日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:39:13.06
>>590
倭人伝からどんどん離れていく
城柵も楼閣も必要なさそうだな 594日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:41:03.86
>>436
>3cの博多湾は衰退を始めている。<
那珂八幡などに後、糸島の阿毎氏が引き継いで繁栄し、
317年頃に姫氏の「筑後〜久留米」に遷宮し、
更に阿毎氏の磐井→タリシホコ→サチヤマと栄えた。
大和のようなそんな田舎の旧小国に、親魏倭王の称号を出す訳がない。
大和説はこれでも終了。 595日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:43:33.06
>>438
>本州全部使えるだろが。
投馬国が出雲、畿内が邪馬台国、東海が狗奴国だ。<
「南≠東」で本州は×。
はい論破。大和説はこれで終了。 596日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:44:35.21
>>590は畿内説の書き込みなのか?
だとしたらアホじゃね?
纏向に軍事を司る機能がないなら邪馬台国とは関係ないってことやな 597日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:45:56.76
毎日毎日「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
このスレを荒らすだけが生き甲斐の大和説のジジイどもも、これで終了。
598日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:46:05.75
>>593
その通り
伝統や戦乱の足跡を感じない
もし魏史の場所が巻向だとしたら、筑紫のように背後の山間部に山城の痕跡が残っていたと思う
だから巻向は邪馬台国ではない証左といえる
巻向は恥ずかしくなるほどの王権象徴都市であって、今でいう天理教本部に近いかもしれないw 599日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:48:09.51
>>596
いやいや俺九州説なンだわ
畿内説のわけないだろw
でも畿内ヤマト王権の成り立ちにも強い興味があるよ 600日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:52:35.64
>>442
ダウト。
九州本島と同じ位の馬韓が「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」であり、
九州島の周辺島嶼を含めれば、15万余戸は、十分入ります!
はい、大和説は終了ーーー! 601日本@名無史さん2019/12/03(火) 23:57:38.15
大和説終了ー(^^)
602日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:00:22.03
>>445
ダウト。
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」だから、
魏の役らは「鐵鏃」の存在を見ており、
卑弥呼の3世紀前半に鉄鏃が存在しなかった大和は、
邪馬壹國女王之所都ではありません。
「南≠東」も含めてそんなウソに頼っている時点で、大和説は終了ーーー! 603日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:02:49.15
>>447
「南→東」などの嘘吐き騙ししか言えず、
口先での悪口しか言えない大和説は終了ーーー! 604日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:06:08.70
>>450
「南≠東」は人類常識であり、それがどうしようもない真実。
大和説は終了ーーー! 605日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:11:08.13
>>451
>畿内説学者(松木氏)の見解
『初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。』<
鉄は、福岡は奈良200倍位。
勿論「南≠東」だし、唐会要倭國伝では「正北抵新羅」だから、倭國は北部九州。 606日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:13:52.01
>>452
「南→東」などの、
人類の常識外れの嘘吐き騙しの異常者しか支持しない大和説は、
終了ーーー! 607日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:19:24.47
>>453
>日本国内で、わざわざ船を降りてから一月も歩くような場所はない
「歴韓國乍南乍東」も陸行であり、
萬二千余里は不彌國や、邪馬壹國女王之所都付で終わっている。 608日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:22:58.49
>>454
ダウト。
魏の役人ら計測記録の里の平均距離ではなく、
そんな始皇帝が強制した架空単位を持ち出す時点で、
大和説は終了ーーー! 609日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:29:47.35
>>457
陸行一月は、郡から女王之所都までの行程での「陸行」部分所要日数であるから、
邪馬壹國女王之所都が筑紫であることの証左。
はい!「南→東」などの嘘吐き騙し大和説は終了ーーー! 610日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:32:22.00
キナイコシが来ないから面白くないな
611日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:34:03.89
>>459
魏の役人たちの計測記録からは、
始皇帝が決めた度量衡のようなそんな架空単位は存在しないから、
大和説は終了ーーー! 612日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:35:35.09
>>600
入るわきゃないだろ。
ダウト!ダウト!ダウト!ダウト!ダウト!ダウト!ダウト! 613日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:36:44.91
>>460
九州説はそんな人口二重カウント詐欺はなどしていないし、
この男のでっち上げであるから、認められない。
大和説は終了ーーー! 614日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:40:39.31
>>467
また「南≠東」の事を隠して、口先での悪口だけか?
大和説は終了ーーー! 615日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:43:16.96
>>469
>出雲経由で日本海側から陸行一月。<
「南≠東」などに拠って×。
はい論破。
大和説は終了ーーー! 。
九州説は終了ーーー! 616日本@名無史さん2019/12/04(水) 00:45:48.86
>>472
>意味不明。
とにかく九州説は終了ーーー! <
この文が意味不明
だから大和説は終了ーーー! 617日本@名無史さん2019/12/04(水) 02:28:13.57
>>616
寝言言ってるのか?
煽りの言葉すら、オリジナリティないの?
他人のをコピーするの?
アンタはどんだけアタマ悪いの?創造性がないの?
そんだけアタマが悪いから、九州説を信奉するんだろう。
侏儒国だとか黒歯国なんて、そんなもん、実在性すら疑わしい。
それで一体、何を勝った気になっているの?
それが一体、何をどうしたら九州説を補強することになるの?
はい!ここまでアタマ悪い人間が支持している時点で、九州説は終了ーーー!!! 618日本@名無史さん2019/12/04(水) 02:32:43.79
>>616
と言うか、お前の人生そのものが終わってるんだよ。
それを自覚しろ。
一年365日、このスレでひたすら畿内説への悪罵を投稿する。
その行為自体が、お前が精神的に異常だと言うことの何よりの証左。
お前の精神は、異常なんだよ。
分かる?
異常なの。アンタは。異常。精神の異常。
1年365日、何をやってるんだよ?
他にやることないのか?趣味とか、地域のボランティアとかさ。
自分自身を狂人だと思わないのかよ?
いい歳して、何をやってるんだ、朝から晩まで、一年365日。
家族からはどう思われてるんだ?そもそも家族はいるのか?
そんなことやったってな、邪馬台国が九州になることは、未来永劫ない。
お前の人生は全て無駄。 619日本@名無史さん2019/12/04(水) 02:39:04.99
>>616
たまにだったら、それはまあいいさ。
けども、1年365日、朝から晩まで畿内説への悪罵をひたすら書き込み続ける。
毎日毎日、朝から晩まで、一日中、PCの前にいるの?
他に、何をしているの?
学術的には、九州説の目なんてのは、最早0%。
京大への対抗心で九州説だった東大の先生も、全部逃げたわ。
当たり前だ。最初から目のない戦い。そんなもん、いつまでもやってられるか。
そんなの自分でも分かってるだろ?
いい加減、自覚しろよ。
ゾンビになってるんだよ、お前らは。
お前らの人生は、無駄。終わってるんだよ。
この文章、また剽窃してコピペするんじゃねーぞ。 620日本@名無史さん2019/12/04(水) 03:17:12.01
住居跡も少し、鉄もない
大集落・王都と言えるのか
畿内説の学者の質もずいぶん落ちたな
621日本@名無史さん2019/12/04(水) 03:37:33.24
>>619
無職、オクヤマの悲鳴が心地よく響くスレはここですか??
w 622日本@名無史さん2019/12/04(水) 03:51:48.84
このようなスレッド(【 】内)があるでしょ?読んでみた?
ほとんど同じような事ばかり言っているから
【本当のアマテラス】 【本当のスサノオ】
623日本@名無史さん2019/12/04(水) 04:04:42.99
倭人伝を信じると伊都までは到着している、そっからは説明だろ、東南至、東至、南至投馬、南至、邪馬壱。だから方角違いでも投馬のほうが水行で倍かかる位置だな。
624日本@名無史さん2019/12/04(水) 04:28:11.28
これも以前書いたはず、ドラムをやっている高野さん。
馬のエンブレム、あれに乗っていたし、赤いやつ、
音楽、CDなども、かなり売れていたのかな?1990年頃には乗っていた。
625日本@名無史さん2019/12/04(水) 04:34:47.66
黄色、黒い馬(跳ね馬)のエンブレム、
確実に、あれと同じだしな・・・・・・・。
626日本@名無史さん2019/12/04(水) 04:45:04.33
馬のエンブレム、車高が低い、赤いやつ・・・確実にあれでしょ、
CD、レコード?なども売れてたのかな、wikiなども無いし、何なんだろう。
627日本@名無史さん2019/12/04(水) 04:48:10.96
>>620
物証より私的な推理優先となっている発表が多いのも確か
巻向で一旗あげるのに、邪馬台国・卑弥呼を出したのであろう 628日本@名無史さん2019/12/04(水) 04:57:32.34
巻向で
国宝・重要文化財級の遺物が多数出ていれば
邪馬台国と関係なく、桜井市の観光に寄与したであろう
今のままでは立ち寄るぐらいで桜井市の収入源にはならない
復元した柱跡だけでは、リピーターは皆無に近いだろう
マキムクの維持・調査も支出ばかり増え財政に悪影響を及ぼしているのでは
629日本@名無史さん2019/12/04(水) 05:40:44.32
630日本@名無史さん2019/12/04(水) 05:41:23.90
>>506
>橿原市一町遺跡の弥生後期層で磨製石斧の断片が出ているな。
石包丁、石槍なども出ている。
この磨製石斧の断片は、伐採用か加工用か不明であるが、実際に使われていたものだろう。
こうした流れをみると、加工用の石斧は後期にはまだ絶賛使用中だったことが分かるな。
一方、加工用鉄斧はまだなかったことが推測される…。 <
ふーん、成程。 631日本@名無史さん2019/12/04(水) 05:46:14.35
>>510
>九州説一手詰みか
チョロいなあ <
大和説は、「南≠東」の一手詰みか。
チョロいなあ 632日本@名無史さん2019/12/04(水) 05:55:42.92
>>628
>巻向で
国宝・重要文化財級の遺物が多数出ていれば
邪馬台国と関係なく、桜井市の観光に寄与したであろう
今のままでは立ち寄るぐらいで桜井市の収入源にはならない
復元した柱跡だけでは、リピーターは皆無に近いだろう
マキムクの維持・調査も支出ばかり増え財政に悪影響を及ぼしているのでは<
県や市も手詰まりまりなのは確か 調査を見直す時期にきていると思う 633日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:01:34.33
>>630
感心するポイントがおかしい
弥生中期には木材の伐採や加工は石斧でするのが当然だった
弥生後期に入って鉄器が入ってくるようになり磨製石斧の出土が激減する
これ、九州でも畿内でも同じく激減する
そして弥生終末には出土しない
どうして弥生後期の葛城の遺跡に磨製の石斧が一個ある話で
「加工用の石斧は後期にはまだ絶賛使用中」
となるのかな
九州説儲の脳のやわらかさは果てしない 634日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:10:28.11
大きくぶち上げてしまったわりには、
200回調査で特筆べきものが出てこないのも事実
そろそろ調査の打ち切りの時期がきているかも
ミュージアム?建設中止がその前兆のような気がする
635日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:14:15.23
>>633
>弥生後期に入って鉄器が入ってくるようになり磨製石斧の出土が激減する
これ、九州でも畿内でも同じく激減する
そして弥生終末には出土しない <
軽はずみすぎる投稿はもうやめたら
そんな事実は無い 636日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:16:32.79
コミック雑誌なんていらない!と同じような話なのかな?
『姥清水』『』『』『』・・・、・・・、・・・。
なぜか日本の話のような気もするし。
637日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:18:34.64
>>635
ないって証拠は?
それ、軽はずみな投稿では? 638日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:20:57.28
>>634
>そろそろ調査の打ち切りの時期がきているかも
これが、軽はずみすぎる投稿の典型だな
埋蔵文化行政をまったく理解してないだろ 639日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:27:05.58
例えばw
『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』wikiなどを読んでみた?
640日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:30:54.08
>>516
>>唐会庸倭国伝の「正北抵新羅」などによって倭国は北部九州にあったのであり<
>唐会要のその一文は「北限大海、西北接百済、正北抵新羅、南與越州相接」となっている。
倭国の南は中国の越と接していると書いてあることからすると、魏志倭人伝の地理観がベースとなっていることが分かる。<
「接」は百済に対しても使っているから、新羅に対する「抵=抵抗」とは違って、
(地理的に接すると言うのではなく)「友好的親密的である」という事を示す。
また、郭務ソウが筑紫都督府に来ていて唐に報告している事になるから、
唐代の「倭人伝以来の倭國の位置の確認」情報である。
>つまり、この地理観は3世紀前半の地理観であり、7世紀の倭国とは異なるものである。<
同じものである。
> 7世紀の倭国は明らかに大和に政権が所在していて、当然九州には所在していない。<
新唐書記載の日本国は大和にあったのであり、
その日本国が旧唐書や唐会要に拠って、「日本國者倭國之別種也」であるから、
7世紀の倭国は、筑紫都督府がある筑紫に都があった事になる。
>また、「東征毛人五十五国」は5世紀末の応神王朝雄略天皇の上表文の文言だから、これも難波の政権。<
いや、倭王武は「正北抵新羅」の倭國王であった事になるから、筑紫の倭國の王。
>3世紀前半の倭国は確かに北部九州にあったが、その3世紀中頃に大和の政権が取って代わって、それ以来大和や難波に政権があった。<
「正北抵新羅」に拠って×。
>その3世紀中頃の墓がホケノ山。<
「日本國者倭國之別種也」や「正北抵新羅」に拠って×。 641日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:37:55.42
642日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:41:39.68
>>631
>加工用鉄斧があったら、石斧は使わんのとちゃう?<
纏向での鉄器は、3世紀末〜4世紀のホケノの鉄鏃が最も古いから、
纏向の「加工用鉄斧」使用は、4世紀頃になってしまうの。 643日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:42:33.31
644日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:44:30.94
>>642
まあ、こうやって素人の我流年代を創作しないと
九州説は死ぬわけよ
つまり創作しても死ぬわけだ 645日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:50:25.78
>>550
>邪馬台国は3世紀半ばの倭国大乱で九州の拠点を放逐されたあと亡命状態に
亡命後吉備に匿われる
交易上連携している東海勢力の尾張氏と河内の物部が呼応し、それぞれの拠点に近くかつ未開発の纏向に王族の新都市を建設
そのさなかに邪馬台国を継ぐ女王(トヨ)が逝去し、吉備からその亡骸を運び込み箸墓が作られる
吉備に移住していた旧邪馬台国の土師器技術者が埴輪を持ち込み古墳を飾った
ヤマト王権は天孫と物部親政から始まり古墳が大量に作られる
その後100年ほど経って土着化した天孫族はかつて滅ぼされた九州王権に対して攻め入り攻略
仲哀天皇の九州征伐はこの頃の説話
みたいな矛盾のない仮説が組めますな <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和説自体が×。 646日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:52:04.10
>>638 >>641
発掘調査業務の内容の変更、一時中止又は打ち切りの必要があると認めた場合に
おける当該措置を必要とする理由その他必要と認められる事項を主務官庁への報告し
認められた場合は発掘調査は中止できるはずですよ 647日本@名無史さん2019/12/04(水) 06:55:59.46
>>557
>なんでも自分の主観を押し通そうとする点が
九州説の病根だな<
なんでも自分の「皇国史観ありきの主観=邪馬台国畿内説」を押し通そうとする点が
大和説の病根だな 648日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:00:26.36
>>638
あなたが根本的な事をわかっていない
発掘調査は中止できますよ
法律に明るくなってください 649日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:02:01.84
>>566
>具体的な話がなにも無い
さすが妄想九州説<
史料事実や史料実態に基づいた具体的な話がなにも無い
さすが妄想大和説 650日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:03:06.50
キウスには日本の法律は難し過ぎる
651日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:07:05.52
>>576
>またも説明不能に陥る九州説<
またも、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しに関して、
説明不能に陥る大和説 652日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:14:26.79
653日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:15:36.17
654日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:16:18.82
発掘調査を打ち切りにするか否かは予算も含め行政の問題でしょうな
削った予算を他の調査に廻すなり、財政の支出抑制にしても良いと思いますよ。
納税者としては、調査価値があれば続行してもらっていいですが、
200回も調査してさしたる進展もない今
マキムク遺跡の発掘調査は縮小すべきだと思いますよ
655日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:19:04.17
>>590
>巻向に鉄鏃やがない理由
周辺国が味方であり守護されていたから
鉄はその性質上使われることに特化した製品であり銅製品とは使用目的が違った
さらに巻向に開発や軍事を司る機能は無く誕生からすでに聖域化されていたから
これ以上の合理的理由がない <
倭国の首都は「正北抵新羅」や「南≠東」などに拠って筑紫であり、
大和や纏向は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国の附庸國であった。
これ以上合理的な理由はない。 656日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:22:32.74
だから言っているでしょ、王母〜龍宮〜?
その家の写真だと、ちなみに川崎区の南部のほうに住んでいる。
・・・ドラムの高野さんも家の隣に住んでいた。
657日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:24:33.35
>>652
発掘調査
法的なことを記述しただけです 658日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:26:26.00
>>633
>これ、九州でも畿内でも同じく激減する
纒向がその流れから遅れているだけだよ。
稲作の普及が全国同時だったわけではないのと同様に、鉄器の普及も同時ではなかった。
纒向は後進地域だというのはそういうこと。
辺境の寒村だったと思えばいい。 659日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:29:35.32
老婆談。
家と結婚する前、何かの家の人だと言われたとかw
660日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:29:59.80
>>654
根本的にわかってないな
何を中止しろと言ってるんだ?
纏向遺跡の一角で地主の誰かが家を改築すれば、調査がもう一次増える
誰かがマンション立てれば、また一次増える
法律を曲げて、それを調査をするなと言うなら、遺跡が記録も取られず無駄に破壊されるだけだ
九州説は日本の文化を破壊したいのか? 661日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:30:53.66
>>590
魏志倭人伝から離れた妄想ですね。
卑弥呼の王城は楼閣や城柵があり、兵が厳かに守っていたとあるので、そんな平和ボケ都市ではない。
建物が数棟あるだけの寒村を都市と仮に認めたとしても、邪馬台国とは関係がないどこかに過ぎない。 662日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:30:55.96
>>658
>纒向がその流れから遅れているだけだよ。
という根拠は? 663日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:31:48.10
664日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:32:34.21
>>559
>キナイコシは釣り師としては一流なのは誰もが認めるところ
>それを活かせる道に進めばいい
詐欺師か信仰宗教だな。
あ、もう桜井市で就職しているのかも。 665日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:32:50.77
>>654
同意
マキムクの調査報告もロクに読んでない奴も多いしなww
読む価値が無いのだろうかなww 666日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:36:09.79
>>660
その法律 抜粋して投稿してくれますか
発掘調査は中止できないと記載されてますか 667日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:39:36.92
>>665
九州説って調査報告書とかまったく読まないんだろ?
でなきゃ纏向で鉄が溶けにくいと報告書に書いてあるとか、猛烈に連呼したりせんわな 668日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:40:18.46
>>666
だから、何を中止するんだよ
あたま、おかしいのか? 669日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:41:42.66
九州説は纏向を調査されるのが怖くて怖くてたまらないようだ
670日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:42:34.13
音楽(レコード、CD?)なども、かなり売れていたのかな?
『黄色 馬 エンブレム 赤』
たしか、乗っていたような、当時(引っ越した)の高野さんの家の駐車場に止まっていたし。
1990年頃には乗っていた、それ以前・・・?
671日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:43:34.65
奥山君 よかったね
大型掘立柱建物群・石器・土壌等々から
発掘調査に話題がえしてくれた人がいて
感謝したらwww
672日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:45:18.53
>>668
最後
「発掘調査」だれが見てもわかるような質問をしないでくれるかな・・・ 673日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:45:36.63
674日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:46:38.86
>>672
だから、
どの発掘調査を中止しろとゴネてるんだ九州説は 675日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:46:40.37
>>528
>大型建物を核にして4棟で一式の「群」が大型建物「群」で悪いのか?
>主観の違いだろ
言語は主観ではない。
共通のものでなければならない。
大型の建物が一つしかなければ、大型建物群ではない。
大型建物群とは、複数の大型建物が集まっていることを言う。 676日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:47:37.78
>>668
埋蔵文化財発掘調査業務監督規程なんかで検索するといいよ 677日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:47:44.67
678日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:48:24.02
畿内説は日本の歴史をぐちゃぐちゃにするための陰謀だろう。
679日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:48:34.38
大型建物一式=1軒ですね
680日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:49:10.91
>>676
自分が、どの発掘調査を中止しろと言い張ってうるかも明らかに出来ない
そんな九州説の言うことを
誰が理解できますか? 681日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:50:04.61
>>675
>言語は主観ではない。
大型と大型以外の区別は主観じゃないの? 682日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:51:19.76
>>678
>畿内説は日本の歴史をぐちゃぐちゃにするための陰謀だろう。
それ、発掘ヤメロと連呼してる九州説のことだから 683日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:53:54.75
今日も朝から九州説が
異常性全開で
ございます
684日本@名無史さん2019/12/04(水) 07:58:20.11
>>683
どっちもどっち だと、何度言えばw @阿波 685日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:00:32.92
@阿保
686日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:22:27.58
>>660
それは、論点ぼかし
調査すべきであるが一時的なもの
どこの市町村でも同じ 687日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:30:06.91
>>667
それ一部の人の勘違いかな
報告書には書いてないが、
マキムクから出た土壌は鉄が溶けにくい土壌の分類と行ったのが正解 688日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:34:35.08
>>682
ちがう現状の調査報告書を見る限り
これ以上 マキムクの発掘調査に税金をつぎ込む必要性を感じないということ 689日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:37:48.03
少なくとも、纒向を特別視するキナイコシは間違いだということ。
690日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:43:31.35
>>683
朝っぱらから異常な投稿を繰り返しているのはキナイコシ
無職はやることないから気楽だなあ
無職キナイコシw 691日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:43:52.82
分かったことは、纒向は、卑弥呼と関係が無かったという事だけなのだね。
692日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:44:42.36
行政措置としての発掘調査と
学術目的の発掘調査の
区別がついていない
キウスはその程
693日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:46:24.80
>>691
分かったことが有ったので、巻向の5%程もの情報を取集できた200回程の調査は無駄ではなかったのだね。 694日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:49:17.50
纏向は鉄を入手できない後進地域
食料も乏しくカエルを食べていた
まさに貧困にあえぐ寒村w
硯も見つかっておらず字を書けないから国書を作成できない
こんなところを都にしている国が魏から金印もらえるわけがない
695日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:49:41.84
架空の世界に、ロシアのルーレット会場が、出現しました。。。。
696日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:50:32.37
別の架空の世界に、ロシアのルーレット会場が、出現しました。。。。
697日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:51:52.06
二つの架空のルーレット会場は、それぞれ熊本城と纏向小屋と名付けられました。。。
698日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:53:59.06
それぞれの会場には、6連発発射できる回転式の拳銃が、10000丁、用意されています。
699日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:54:29.32
>>687
勘違いを異常に連呼し続けた異常な九州説儲がいて
そいつは調査報告書とかまったく読まないんだろ?
九州説の皆がそうなんじゃないの? 700日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:55:29.44
>>1
テンプレだがこのような理解でようかな
1、掘立柱建物は 王宮
2、マキムクは大都市では無い 701日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:56:30.03
>>699
キナイコシはあたかも纏向の土壌は鉄が溶けやすいかのような発言を繰り返していたから、五十歩百歩 702日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:57:07.67
架空の別の2つの世界には、どちらも奧山氏がいます。
703日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:57:42.21
>>688
>ちがう現状の調査報告書を見る限り
>これ以上 マキムクの発掘調査に税金をつぎ込む必要性を感じないということ
それって纏向でマンション建てようがショッピングモール作ろが
調査しないで記録も取らないで
遺跡を破壊しろって主張だよな
九州説は異常です 704日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:58:19.62
10000の5%は200で良いな。
705日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:58:45.55
706日本@名無史さん2019/12/04(水) 08:59:37.21
>>705
過去スレ読み返して見なよ
たくさん出てくるが 707日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:00:47.50
>>699
畿内説のスレだから、他説以上に
マキムクの報告書を読んでないといけないということ
掘立柱建物(群)しかりマキムクは
また巻向が「鉄が溶けやすい土壌」であると言う根拠の列記
等々 708日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:01:32.27
>>615の訂正
>>469
>出雲経由で日本海側から陸行一月。<
「南≠東」などに拠って×。
はい論破。
大和説は終了ーーー! 。 709日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:02:35.44
>>689
>少なくとも、纒向を特別視するキナイコシは間違いだということ。
いや、特別だろいろんな意味で
規格外にでかいし祭祀に特化しすぎだし
画期的な大型建物あるし
十分に特別だ 710日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:04:37.25
2つのルーレット会場のどちらかには、用意された1万丁の拳銃の全てに、「邪馬台国という都の人民の住居」と名付けられた鉄の弾が1発づつ込められています。
711日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:05:07.40
>>707
掘立柱建物(群)でなんの問題があるんだ?
巻向が「鉄が溶けやすい土壌」なのも事実だろ
日本中「鉄が溶けやすい土壌」がほとんどなんだからな 712日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:05:38.67
>>692
学術目的の発掘調査
のほうが、中止や縮小しやすいよ
税金をなんだと思っているのかね・・・ 713日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:08:54.44
架空の熊本城の奧山氏が、1万丁の拳銃の中から30丁選択しルーレットを開始ししました、、、
可愛そうなので、筒先は急所には向けられません。
架空の纏向小屋の奧山氏が、1万丁の拳銃の中から200丁選択しルーレットを開始ししました、、、
安全そうなので、筒先は急所に向けられました。
714日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:10:02.55
八村塁氏が闘うのだったな。。。
715日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:11:43.60
>>617
相変わらず、「南→東」などの史料事実の否定抹殺や曲解の、
嘘つきだましの寝言言ってるのか?
煽りの言葉すら、オリジナリティないの? 他人のをコピーするの?
アンタはどんだけアタマ悪いの?創造性がないの?
そんだけアタマが悪いから、大和説を信奉するんだろう。
侏儒国や黒歯国なども、魏使らが倭人から得たらが貴重な情報であり、史料事実だ。
それで一体、何を勝った気になっているの?
それが一体、何をどうしたら大和説を補強することになるの?
はい!ここまでアタマ悪い邪悪な人間が支持している時点で、大和説は終了ーーー!!! 716日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:12:50.54
始まった。。。
717日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:16:08.32
ビーバーを世界に宣伝した者がいないな。。。
718日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:16:38.88
>>618
と言うか、お前の大和説人生そのものが終わってるんだよ。 それを自覚しろ。
一年365日、このスレでひたすら史料事実や九州説への悪罵を投稿する。
その行為自体が、お前が精神的に異常だと言うことの何よりの証左。
お前の精神は、異常なんだよ。 分かる? 異常なの。アンタは。異常。精神の異常。
1年365日、何をやってるんだよ?
他にやることないのか?趣味とか、地域のボランティアとかさ。
自分自身を狂人だと思わないのかよ?
いい歳して、何をやってるんだ、朝から晩まで、一年365日。
家族からはどう思われてるんだ?そもそも家族はいるのか?
そんなことやったってな、卑弥呼や倭國が大和になることは、未来永劫ない。
お前の人生は全て無駄。 719日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:17:02.55
>>705
奥山さん すっとボケてるの?ボケた?
これ君の投稿じゃないの
582日本@名無史さん2019/11/30(土) 14:43:08.68
九州説の頭のおかしい人以外は、纏向遺跡で鉄の出土量が少ない理由は
これで納得がいったでしょ?
「2006年の文化財科学会で土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表されてから
マトモな頭の人は鉄器出土量で単純比較なんてしなくなった」
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
これでも納得がいかないとか、出土量が違うのは1700年前の使用量が違うからとかいう人は
高校生レベルの知的能力がないというカミングアウトでしかない
九州説の息の根がとまったといっていいんじゃない? 720日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:18:39.55
奥山の記憶力は5時間以内までだなwww
ボケてる証拠
721日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:24:33.37
>>619
類スレ主のような「南→東」などの嘘つき騙しの史料事実の否定抹殺や曲解捏造も、
たまにだったら、それはまあいいさ。
けども、1年365日、朝から晩まで九州説への悪罵をひたすら書き込み続ける。
毎日毎日、朝から晩まで、一日中、PCの前にいるの? 他に、何をしているの?
学術的には、大和説の目なんてのは、最早0%。
京大や東大の先生や、教育委員会や公的研究機関も、文科省も、全部最早確率ほぼ0%。
当たり前だ。最初から目のない戦い。そんなもん、いつまでもやってられるか。
そんなの自分でも分かってるだろ? いい加減、自覚しろよ。
ゾンビになってるんだよ、お前らは。 お前らの人生は、無駄。終わってるんだよ。
この文章、また剽窃してコピペするんじゃねーぞ。 722日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:30:01.36
奥山の特技
「吐いた唾を飲みこめる」
723日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:33:08.91
>>703
それは一時的なものであり、調査する必要はあるが
マキムク遺跡に限ったことではない 724日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:34:29.25
>>623
>倭人伝を信じると伊都までは到着している、そっからは説明だろ、<
いや、魏使らは、邪馬壹國女王之所都まで行っているし、
魏の役人たちは、侏儒國付近まで行っている。
>東南至、東至、南至投馬、南至、邪馬壱。
だから方角違いでも投馬のほうが水行で倍かかる位置だな。<
投馬國は、「至」の前に途中移動をした事を示す文言がないから、
不彌國からの側副傍線國説明であり、魏使らは行っておらず、倭人からの伝聞情報であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていたから、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になる。 725日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:37:05.96
マキムク遺跡の発掘調査より
奥山の頭の発掘調査してみたいなwww
726日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:39:49.36
727日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:39:49.97
>>629
>などと「私的な推理」に終始する九州説 <
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しだけではなく、
あらゆる史料事実や史料実態に対して「私的な嘘つき騙しの詐術的推理」に、
終始する大和説者。 728日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:44:30.74
>>704
10000の5%は、500丁なのではないのかな。
だから、200回と5%という数字を使用したいならば、拳銃の数を4000丁にすれば良いよ。 729日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:46:10.19
>>728
そうだな、、、
コーヒーを飲んでから、思考実験の話を纏め上げれば良いな。。。 730日本@名無史さん2019/12/04(水) 09:50:34.23
「いわゆる邪馬台国がらみでも、(旧石器捏造事件と)同じようなことが起こっている」
「証明を抜きにして、仮説だけがどんどん上積みされており、マスコミもそれをそのまま報じている。」
「近畿地方では、古い時期の古墳の発掘も多いが、邪馬台国畿内説が調査の大前提になっているために、
遺物の解釈が非常に短絡的になってきている。考古学の学問性は今や、がけっ縁まで追いつめられている。」
731日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:06:18.08
以前奥山の頭の中を発掘したとき、電子は原子核の周りを回っている、という物事が埋まっていたのを発見し、奥山が理系ではないという事実を、確定させたので、あったな。。。
732日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:06:19.77
>>730
>考古学の学問性は今や、がけっ縁まで追いつめられている。
その救世主が、まさに倭国(阿波)となるわけ! わははははは @阿波 733日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:06:41.55
>>633
>感心するポイントがおかしい 弥生中期には木材の伐採や加工は石斧でするのが当然だった
弥生後期に入って鉄器が入ってくるようになり磨製石斧の出土が激減する
これ、九州でも畿内でも同じく激減する そして弥生終末には出土しない
どうして弥生後期の葛城の遺跡に磨製の石斧が一個ある話で
「加工用の石斧は後期にはまだ絶賛使用中」 となるのかな
九州説儲の脳のやわらかさは果てしない <
九州では、半島鉄を使った鉄器使用は(石器と少し並行時期があったとしても)
相当古くから始まっているようであるが、
纏向では、鉄器は4世紀頃のホケノの鉄鏃という武器が始まりであり、
それ以前の鉄器が空白になっているが、
しかし、生活用品である「斧」は、断絶していた筈がなく、
「鉄斧」が存在していなければ、当然「石斧」を使っていた筈である。 734日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:10:59.66
>>733
>纏向では、鉄器は4世紀頃のホケノの鉄鏃という武器が始まりであり、
それがデタラメだから九州説が世間から相手にされんのです 735日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:13:25.00
奈良県教育委員会の最大の課題は
小中児童の学力を攻城させることである
マキムクも良いが、生徒の教育に金をかけるべきである
(2019年)の全国学力テスト都道府県別正答率ランキング!で奈良県は都路府県別で38位
2018年度は36位
736日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:14:41.46
737日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:16:07.36
>>735
ちょっとだけ奈良の中学生に算数を教えたことがあるんだけど、分数の計算が全く出来ない子が多かったよ 738日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:24:31.97
>>644
まあ、「南→東」などの「人類の常識」外れの嘘つき騙しのように、
こうやって人類の常識外れの我流年代を創作しないと
大和説は死ぬわけよ
つまり創作しても死ぬわけだ 739日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:27:54.10
キナイコシがいくらわめいてみても
キナイコシは無職の負け組だという事実は変わらないw
つーか、キナイコシの投稿は纏向学研究センターも迷惑に感じているんじゃないか
自分が纏向学研究センターの関係者だったら絶対やめてくれと思うだろう
キナイコシは良かれと思ってやっているのだろうが、
スレ立てしてアホな投稿繰り返していたらいつまでたっても就職できないぞw
740日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:46:41.62
まあ学会から金もらってやっているなら話は別だが
741日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:48:32.70
>>739
それが畿内説は一人しかいないと言おう妄想から来た二次妄想だってこと
まだ気づかないのかな 742日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:50:47.58
架空の世界に、ロシアのルーレット会場が、出現しました。。。。
別の架空の世界に、ロシアのルーレット会場が、出現しました。。。。
二つの架空のルーレット会場は、それぞれ熊本城と纏向小屋と名付けられました。。
それぞれの会場には、6連発発射できる回転式の拳銃が、4000丁、用意されています。
2つのルーレット会場のどちらかには、用意された拳銃の全てに、「邪馬台国という都の人民の住居」と名付けられた鉄の弾が1発づつ込められています。
架空の熊本城の奧山氏が、4000丁の拳銃の中から30丁選択しルーレットを開始ししました、、、
可愛そうなので、筒先は急所には向けられません。
架空の纏向小屋の奧山氏が、4000丁の拳銃の中から200丁選択しルーレットを開始ししました、、、
安全そうなので、筒先は急所に向けられました。
743日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:50:51.25
>>683
今日も朝から、
「南→東」などの嘘つきだましの大和説者が、
異常性全開で
ございます 744日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:51:59.01
無職奥山w
745日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:55:50.27
>>687
>それ一部の人の勘違いかな
報告書には書いてないが、
マキムクから出た土壌は鉄が溶けにくい土壌の分類と行ったのが正解<
あれま?、そうだったんですか?。 746日本@名無史さん2019/12/04(水) 10:56:32.93
>>640
>筑紫都督府がある筑紫に都があったことになる
郭務悰との外交交渉が太宰府で行われたというだけであり、太宰府に九州王朝の都があったわけではないな。
>「正北抵新羅」に拠って×
その地理観は卑弥呼の時代のものなので、5世紀末や7世紀の地理観に当てはめるのは×。
ホケノ山の後円部がまだ不整円形なので、築造は3世紀中頃。 747日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:06:51.99
>>736
同じ穴のムジナ
畿内説のスレなんだろ、スレ主なんだろ指摘してやればいいじゃん
テンプレより
>勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 748日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:13:13.69
>>642
>纏向の「加工用鉄斧」使用は、4世紀頃になってしまうの
ホケノちゃんは3世紀中頃だから、それ以前の3世紀前半は加工用石斧を使用。 749日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:15:01.90
ホケノ山古墳という、4世紀に出現した古墳があったのだったな。。。
750日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:16:00.61
750
751日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:19:29.84
地表上の物体Aは、地表の直下の空洞にある物体Bに、地表が崩落しても、接触しないのだったな。。。
752日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:20:24.32
>>751
物体Aと物体Bは、崩落した土砂に遮られてしまうのだったな。。。 753日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:23:42.13
ウィザーズは、守りのケミカルを高めた方が良いのではないのかな。。。
754日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:25:14.00
>>633
>これ、九州でも畿内でも同じく激減する
丹後〜明石〜摂津〜河内ライン以西は中期〜後期にかけて伐採用鉄斧はすでに流通している。
後期になって伐採用鉄斧が入ってきたと考えられるのは同ライン以東のエリア。
地域差が明確に存在する。
後期の大和では加工用鉄斧を保持した工人集団の存在は考えにくく、加工用石斧が在地工人によって使われていたと考えるのが妥当。
纏向の矢板には、加工用鉄斧で削った痕跡はみられない。
その矢板の写真をみれば、加工用石斧で粗削りしたあと砥石で仕上げしたようにみえる。 755日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:26:07.29
>>734
>>纏向では、鉄器は4世紀頃のホケノの鉄鏃という武器が始まりであり、<
>それがデタラメだから<
いや、史料事実や史料実態であり、計測実態。
>九州説が世間から相手にされんのです<
大和説は、国民の過半数からも、中国人学者らからも、世界の科学者らからも、
相手にされんのです。 756日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:27:26.86
矢板の表面を滑らかにする必要性は、全く無いな。。。
757日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:28:25.75
>>756
巻向下水道の矢板は、床材を転用したのだったね。。。 758日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:51:54.75
架空の世界に、ロシアのルーレット会場が、出現しました。。。。
別の架空の世界に、ロシアのルーレット会場が、出現しました。。。。
二つの架空のルーレット会場は、それぞれ熊本城と纏向小屋と名付けられました。。
それぞれの会場には、6連発発射できる回転式の拳銃が、4000丁、用意されています。
2つのルーレット会場のどちらかには、用意された拳銃の全てに、「邪馬台国という都の人民の住居」と名付けられた鉄の弾が1発づつ込められています。
架空の熊本城の奧山氏が、4000丁の拳銃の中から30丁選択しルーレットを開始ししました、、、
可愛そうなので、筒先は急所には向けられません。
架空の纏向小屋の奧山氏が、4000丁の拳銃の中から200丁選択しルーレットを開始ししました、、、
安全そうなので、筒先は急所に向けられました。
759日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:56:10.73
巻向遺蹟は、200回程もの発掘で、約5パーセント程の土地を、調査したのだったな。。。
760日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:57:23.36
760
761日本@名無史さん2019/12/04(水) 11:58:40.48
>>759
邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く発見できなかったのだったな。 762日本@名無史さん2019/12/04(水) 12:03:56.25
>>746
>>筑紫都督府がある筑紫に都があったことになる<
>郭務悰との外交交渉が太宰府で行われたというだけであり、
太宰府に九州王朝の都があったわけではないな。<
「正北抵新羅」に拠って、倭国の中心は北部九州であり、
唐が都督府を置いたのも、相手国の中心地ばかり。
>>「正北抵新羅」に拠って×<
>その地理観は卑弥呼の時代のものなので、5世紀末や7世紀の地理観に当てはめるのは×。<
郭務悰やその他の官や軍がやって来て確認しているから、7世紀の白村江の後の地理観。
>ホケノ山の後円部がまだ不整円形なので、築造は3世紀中頃<
卑弥呼の墓は「有棺無槨の冢」であって、
ホケノの「有棺有槨の前方後円墳」ではないから、「3世紀中頃」論が×。
また、後円部がほぼ正円になるの箸墓からであり、
那珂八幡や、庄内1の3世紀末の石塚や、ホケノは少しいびつであり、
ホケノは「庄内3〜布留」であるから、石塚よりも後であり、3世紀末〜4世紀。 763日本@名無史さん2019/12/04(水) 12:37:04.44
>>633
>どうして弥生後期の葛城の遺跡に磨製の石斧が一個ある話で…
この時期には、大和で鉄器は一個しか出てないのだが、こちらはどうするのよ。
それに、石斧は大和高田の有井遺跡でも出ている。さらに時期不明ながら大和高田の別の遺跡でも石斧が出ている。
大和一帯で後期あたりに石斧が使われていたことは証明されており、後期に橿原市の遺跡で出たその石斧一個は、単に一個というだけに止まらない背景があるということ。
唐古・鍵の後期の加工用鉄斧1個だけとはわけが違うということだわな。 764日本@名無史さん2019/12/04(水) 12:49:49.96
724.共立で王を決めてた時なんで辰国のように伊都が共同体首都で卑弥呼の都が伊都から水10、歩けば一月の宇佐じゃないの?秦人だな。また記紀を使うと足りし彦にアマつけてアマテラスだろ?仲哀までは天照だな。その先キョンシー。
765日本@名無史さん2019/12/04(水) 12:54:07.27
>>763
「柱状片刃石斧」
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。
この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。
阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。
南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、
これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、
東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など) ・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、
姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。 @阿波 766日本@名無史さん2019/12/04(水) 12:58:53.08
奥山 昼寝中
767日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:01:28.54
奥山 ふて寝中
768日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:02:02.05
>>748
>>纏向の「加工用鉄斧」使用は、4世紀頃になってしまうの <
>ホケノちゃんは3世紀中頃だから、それ以前の3世紀前半は加工用石斧を使用。<
卑弥呼の墓は、「有棺無槨の冢」であって、
ホケノの「有棺有槨の前方後円墳」ではないから、「3世紀中頃」にはならない。
また、後円部がほぼ正円になるのは箸墓からであり、
那珂八幡や、庄内1の3世紀末の石塚や、ホケノは少しいびつであり、
ホケノは「庄内3〜布留」であるから、石塚よりも後であり、3世紀末〜4世紀。 769日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:03:24.88
CSでインドネシアの漁師がボートで1日60キロ進むとやっていたが卑弥呼の時代じゃダメだろ、奈良は遠すぎるな。
770日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:03:32.17
>>709
>規格外にでかいし祭祀に特化しすぎだし
そうでもないよ?
そう思った理由は?
君の主観や色眼鏡以外でさ。
それと、意味もなく邪馬台国を絡めるなよ。 771日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:04:36.66
【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
772日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:04:51.55
>>762
>唐が都督府を置いたのも、相手国の中心地ばかり
朝鮮半島に唐が置いた都督府については資料があって、その都督府の主権者が唐政府であることはその通りであり、
一方、筑紫都督府に関する資料は中国側にはなく、筑紫都督府の主権者が唐政府であったとは断定できない。
この筑紫都督府は日本書紀天智天皇6年の条にみられる名称。
ということは筑紫都督府に関する資料は日本側の史書にみられるものであり、その名称は当時の天智天皇の政府が名付けたものであることになる。
つまり、筑紫都督府の主権は天智天皇の政府にあったことになる。
同じ「都督府」という言葉が使われているとはいえ、その主権者が一方は唐政府、一方は日本政府ということであり、その筑紫都督府の主権者を唐政府とするのは誤りといえる。
>郭務悰やその他の官や軍がやって来て確認しているから…
郭務悰は太宰府に来ただけ。天智天皇がいた大和や近江にまで来たわけではない。
「正北抵新羅…」は伝統的な旧倭国の地理観に沿って書かれたもの。
郭務悰が大和や近江にまで来ていれば、天皇の所在地がちゃんとした地理的記述に反映されたと思われる。 773日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:07:23.59
>>754
>>これ、九州でも畿内でも同じく激減する <
>丹後〜明石〜摂津〜河内ライン以西は中期〜後期にかけて伐採用鉄斧はすでに流通している。
後期になって伐採用鉄斧が入ってきたと考えられるのは同ライン以東のエリア。
地域差が明確に存在する。
後期の大和では加工用鉄斧を保持した工人集団の存在は考えにくく、
加工用石斧が在地工人によって使われていたと考えるのが妥当。
纏向の矢板には、加工用鉄斧で削った痕跡はみられない。
その矢板の写真をみれば、加工用石斧で粗削りしたあと砥石で仕上げしたようにみえる。<
ふーん。 774日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:09:42.00
>>287
>皇室、宮内庁、文科省、考古学界、マスコミ、国家総動員の嘘八百、「畿内」説!w
天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
卑弥呼の係累・末裔が、のちの皇室・皇族になった・・・、で困るのはこれらのうちの誰々か・・・ 775日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:17:29.71
>>774
>天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
その日向って、どこ? @阿波 776日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:19:51.69
>>763
>>どうして弥生後期の葛城の遺跡に磨製の石斧が一個ある話で… <
>この時期には、大和で鉄器は一個しか出てないのだが、こちらはどうするのよ。
それに、石斧は大和高田の有井遺跡でも出ている。さらに時期不明ながら大和高田の別の遺跡でも石斧が出ている。
大和一帯で後期あたりに石斧が使われていたことは証明されており、後期に橿原市の遺跡で出たその石斧一個は、単に一個というだけに止まらない背景があるということ。
唐古・鍵の後期の加工用鉄斧1個だけとはわけが違うということだわな。<
じゃ、3世紀末〜4世紀のホケノの頃まで、
纏向では、石矛が使われていた可能性がある、
という事でいいな。 777日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:22:32.62
高天原は、畿内のある地域。
高野山と天野山の山間の地域を
両方の山の名前を取って「高天の原」といった。
出雲国譲りで、畿内王権である高天王朝が出雲を降伏させ、全国制覇が達成された後、
皇室の祖先の邇邇芸命は、この「高天の原」から
九州の高千穂へ派遣された。
778日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:23:01.20
天皇家自身、
我がふるさとは阿波にあらずとの主旨でこのように言っている。・・ザンネーン!
779日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:25:15.72
纏向と登呂を関連づけている根拠は矢板の存在であり、その登呂の土質が鉄を錆びさせやすいので、登呂と同列の纏向の鉄も錆びて溶けてしまった、というのが大和説者の主張。
しかし、鉄を錆び果てさせる原因は土質であって、矢板が鉄を錆び果てさせる原因ではない。
つまり、纏向の土質と登呂の土質が近似しているという調査結果がない以上、纏向で鉄が出土しないのは登呂とよく似た土質が原因であるとは言い難いのだ。
しかも、登呂は沖積平野の末端の水田地帯であり、一方、鉄を錆びさせにくい土質である青谷上寺地と纏向は山麓直下の小扇状地という地理的環境がよく似ており、纏向の土質も鉄が錆びにくいものである可能性がある。
要するに、纏向と登呂を結びつけた大和説者の論戦術はミステイクであった可能性が高いということだ。
780日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:26:25.56
奥山電池切れ
781日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:33:03.91
>>779
登呂の矢板が鉄器で削られたとする主張は、矢板の現物に鉄器痕がみつかったからというわけではなさそうだ。
住居の建築部材に鉄鑿のような工具で加工された形跡があるとする見解がそもそもの元にあり、矢板も鉄器で削られたのだろうということである。
しかし、この鉄鑿の存在は登呂の住居については、疑わしいとする意見もみられる。
要するに、弥生後期の登呂の木材が鉄器で削られたとする主張は、どうも再考の余地がありそうなのだ。
となつてくると、登呂と纏向を同列に置いた大和説者も困惑、という構図になってくるな。 782日本@名無史さん2019/12/04(水) 13:37:04.53
>>776
>纏向では、石矛が使われていた可能性がある、という事でいいな
珍棒くらいは使っていたのじゃないか。 783日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:25:02.33
奥山はこんなスレに顔出さずに就職のためにせっせと論文書いた方がいい
このスレは俺たちで維持していくから、奥山は心配せずに休んでいてくれw
784日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:33:09.34
785日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:34:33.34
786日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:35:38.12
>>778
>天皇家自身、我がふるさとは日向だといっている
その日向って、どこ? @阿波 787日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:39:01.54
>>782
>珍棒くらいは使っていたのじゃないか。
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、
その一大製作遺跡であると考えられている。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 788日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:39:09.08
>>756
>矢板の表面を滑らかにする必要性は、全く無いな。。。<
賛同
鉄器で削ったから変な方向に向かったな
表面を滑らかにしようがしまいが、突如 鉄器が出てきたな 789日本@名無史さん2019/12/04(水) 14:53:53.39
>>779
登呂遺跡は鉄が溶けたという証拠があるのかな
もし、証拠があるなら同じ証拠がマキムクでも出てこないと
おかしいと思うが、
これ奥山に聞くべきですが ふて寝中だから 790日本@名無史さん2019/12/04(水) 15:09:03.14
>>789
今頃になって
奥山氏はマキムクの鉄は溶けたと投稿したのは自分では無いと言いだしたぞ 791日本@名無史さん2019/12/04(水) 15:13:24.20
奥山 畿内説互助会から呼び出され
嘘を垂れ流すなと叱られてんじゃねーか
792日本@名無史さん2019/12/04(水) 15:18:04.74
キナイコシはもともと夜行性だから
ほとんど午後は投稿しない
夕方から 翌日 午前(夜中に狂いだす時もある
793日本@名無史さん2019/12/04(水) 15:29:11.13
ある意味
奥山は人気があるな
794日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:06:15.03
>>772
>ということは筑紫都督府に関する資料は日本側の史書にみられるものであり、その名称は当時の天智天皇の政府が名付けたものであることになる。
>同じ「都督府」という言葉が使われているとはいえ、その主権者が一方は唐政府、一方は日本政府ということであり、その筑紫都督府の主権者を唐政府とするのは誤りといえる。
唐の側に筑紫都督符の資料がない理由はよくわからない。
しかし敗戦国であった倭は唐を頂点とする体制の中にあったはずであり、他の敗戦国と同様に筑紫都督府も唐が設置したと考えるのが妥当。
倭だけが好き勝手に皇帝のように都督を任命したりできるわけがない。
>郭務悰は太宰府に来ただけ。天智天皇がいた大和や近江にまで来たわけではない。
それは大宰府が王都であったことの証拠だよ。 795日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:06:59.89
>>772
>>唐が都督府を置いたのも、相手国の中心地ばかり<
>朝鮮半島に唐が置いた都督府については資料があって、その都督府の主権者が唐政府であることはその通りであり、
一方、筑紫都督府に関する資料は中国側にはなく、筑紫都督府の主権者が唐政府であったとは断定できない。<
列島に置ける「都督」呼称の発生は宋書倭國伝の、
太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、弟珍立、遣使貢獻。
自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
表求除正。詔除安東將軍、倭國王。
では自称はしたが、「都督」は認められず、倭國王濟の時に、
「加使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東將軍如故」
として、都督を認められたようであり、
倭王世子興の時はまた都督は認められず、次の倭王武の時に、また自称し上表して、
「詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」と「都督」を認められ、
しかし、6世紀初頭の梁代に「鎭東大將軍倭國王武、進號征東將軍」として降格され、都督では無くなっていたらしい。
そして、梁書では、列島の独立的な国としては、九州倭国以外に、出雲の文身國と、
越の大漢國と侏儒國と大和の扶桑國と毛人蝦夷の「女國」の書き分けがある。
という事は、九州倭国には、自国の筑紫の都は都督府だ、という認識があり、
唐も、筑紫の倭の都は「都督府だった」という認識を持っていた、
という事になる。
(長くなるから、一旦切る) 796日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:08:36.21
>>779
>要するに、纏向と登呂を結びつけた大和説者の論戦術はミステイクであった可能性が高いということだ。
どうだろう。
登呂も纒向も、土器の移動からは同じ尾張の支配下だったろう。
まあ、そこを突っ込めば纒向の独自性などこれっぽっちもなくなるので、纒向は田舎の寒村という結論に変わりはない。 797日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:25:49.05
>>787
>石棒は縄文時代を代表する石器である。…儀礼に用いられたと考えられている
最大の石棒は長野県佐久穂町出土の通称北沢大石棒。
志賀用溶結凝灰岩で作られ、長さ223cm、直径25cm。
縄文中期後半の製作。
諏訪大社の御柱は大石棒の伝統か。
長野は長いのが好きなんだろう。
徳島阿波も長いのが好き人間の拠点の一つということ。
忌部も長いのが好きだっただろう。 798日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:34:49.58
>>772の続き
>この筑紫都督府は日本書紀天智天皇6年の条にみられる名称。<
大和日本國側の記録には、筑紫都督府設置の記録はないし、半分偽書の書紀が、
ついうっかり「筑紫都督府」という文言を書いてしまったアホであったのであり、
「筑紫」は当然中国や唐が呼ぶ筈がない文言であるから、列島側の形容文言であり、
「都督府」という文言は、倭國王濟や倭王武が宋から貰った「都督」の府である、というであり、
その事を知っている唐や郭務ソウらも使った文言。
>ということは筑紫都督府に関する資料は日本側の史書にみられるものであり、その名称は当時の天智天皇の政府が名付けたものであることになる。
つまり、筑紫都督府の主権は天智天皇の政府にあったことになる。<
ならない。郭務ソウの来倭時点では、まだ九州倭国が列島の盟主であったのであり、
大和日本國は、九州倭国の別種分家の地位であり、
敗戦した倭国に代わって天智が代わりに唐と折衝したに過ぎない。
従って書紀は、ついうっかり「郭務ソウの着任地」を筑紫都督府とかいてしまった。
>同じ「都督府」という言葉が使われているとはいえ、
その主権者が一方は唐政府、一方は日本政府ということであり、
その筑紫都督府の主権者を唐政府とするのは誤りといえる。<
宋代の「都督」という地位自体も,中国側からの与えらえた身分であり、
その事は、結局宋政府の何回目かの後継にあたる唐も知っている。 799日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:37:29.01
>>793
>ある意味奥山は人気があるな
ここにきている人は皆キナイコシをからかって楽しんでいるわけだからw 800日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:40:40.18
>>796
>登呂も纏向も、土器の移動からは尾張の支配下だったろう
尾張のS字型口縁壺には三重の雲出川の一志の砂を混ぜる仕来りがあった。
この雲出川の上流は大和の宇陀とつながっている。
また、葬礼で使う供献土器の壺に穴を開ける様式は尾張から近江に伝わって、その後に各地へ広がり定型化した。
近江と大和とは南北の連携がみられるので、尾張、近江、大和の三角関係は3世紀前半以前からあったはず。
尾張にとっては、近江は日本海交易路の窓口で、大和は瀬戸内海交易路の関係だろう。
近江と大和が尾張の支配下にあったかどうかというと、2世紀後半に近江や大和に前方後方型の墳墓はないようだから、支配関係があったかどうかは微妙だろうなぁ。 801日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:50:09.94
>>800
尾張は太平洋側の拠点だが、大和を通過して瀬戸内海というのは現実的ではない。
奈良盆地は東西が険しい山で阻まれているからだ。
大和が尾張とかろうじて関係を保っていても、尾張側には積極的なメリットはない。
尾張が瀬戸内海にアクセスするのは近江から淀川経由だろう。 802日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:52:44.96
>>772の続き
>>郭務悰やその他の官や軍がやって来て確認しているから… <
>郭務悰は太宰府に来ただけ。<
当然、白村江で大勝利した相手の倭國の都に乗りこんで来て、倭国の始末を付けに来た。
>天智天皇がいた大和や近江にまで来たわけではない。<
敗戦した倭国に代わって唐との交渉者になろうとしている者が、
どこの国の人間であるのか?を確認するために、一度だけ宇治まで来て、
歓迎の閲兵?を受けたらしい。
>「正北抵新羅…」は伝統的な旧倭国の地理観に沿って書かれたもの。<
いや、魏使や隋使らに続いて3度目に、郭務悰らが改めて地理的壹の確認を取ったもの。
>郭務悰が大和や近江にまで来ていれば、
天皇の所在地がちゃんとした地理的記述に反映されたと思われる。<
書紀は、郭務悰が宇治まで来て閲兵や歓迎があり、
確認をされたことを記載してしまっている。 803日本@名無史さん2019/12/04(水) 16:54:20.26
宇治が都だったわけではあるまい。
804日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:00:05.51
それにしても、奥山がここまでこのスレで妄想垂れ流しているのに、所属学会、所属研究室からは何も言われないのかね?
自分が指導する立場だったら、いい加減にやめて黙ってろ、くらいのこと言って叱りつけるけどな
このクソスレが540も続いていることを考えると、
学会あるいはどこかの研究施設から金もらって請け負っているんじゃないか、という気もしてくる
805日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:11:11.01
>>779
>纏向と登呂を関連づけている根拠は矢板の存在であり、その登呂の土質が鉄を錆びさせやすいので、登呂と同列の纏向の鉄も錆びて溶けてしまった、というのが大和説者の主張。
しかし、鉄を錆び果てさせる原因は土質であって、矢板が鉄を錆び果てさせる原因ではない。
つまり、纏向の土質と登呂の土質が近似しているという調査結果がない以上、纏向で鉄が出土しないのは登呂とよく似た土質が原因であるとは言い難いのだ。
しかも、登呂は沖積平野の末端の水田地帯であり、一方、鉄を錆びさせにくい土質である青谷上寺地と纏向は山麓直下の小扇状地という地理的環境がよく似ており、纏向の土質も鉄が錆びにくいものである可能性がある。
要するに、纏向と登呂を結びつけた大和説者の論戦術はミステイクであった可能性が高いということだ。<
ふーん、成程。 806日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:15:54.52
>>798
>うっかり「郭務悰の着任地」を筑紫都督府と書いてしまった
日本書紀の認識では郭務悰は百済の鎮将劉仁願の私使というものだから、唐の皇帝が与える称号である都督の言葉を日本側が用いる理由がないと思われる。
都督は軍政を司る中国の官名であり、日本式の太宰の帥(だざいのそち)を格好よく筑紫都督府と書いたに過ぎないようにみえるがな。 807日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:21:01.39
>>788
登呂の矢板が鉄器で削られたとする主張は、矢板の現物に鉄器痕がみつかったからというわけではなさそうだ。
住居の建築部材に鉄鑿のような工具で加工された形跡があるとする見解がそもそもの元にあり、矢板も鉄器で削られたのだろうということである。
しかし、この鉄鑿の存在は登呂の住居については、疑わしいとする意見もみられる。
要するに、弥生後期の登呂の木材が鉄器で削られたとする主張は、どうも再考の余地がありそうなのだ。
となつてくると、登呂と纏向を同列に置いた大和説者も困惑、という構図になってくるな。<
ふーん。 808日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:36:03.69
>>801
>尾張が瀬戸内海にアクセスするのは
そもそも、それが妄想! 尾張忌部が瀬戸内海にアクセスする訳がない! わははははは @阿波 809日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:41:13.32
それにしても、家の近所の話をしている人がいたりするんだけど、何なんだろう。
本当のアマテラス、天皇家の先祖ではないという話。
もうないんだけど、ジョナサン(ファミレス)が何やらとか。
歩いて十秒くらいのところにあったんだけど、
近所に色の黒い人も住んでいたし、もともと黒かったのか、日焼けしたのかは不明。
810日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:47:30.24
家があって・・・、高野さんの家、
高野さんの家の前にジョナサン(ファミレス)があった。
811日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:51:24.66
そういうもの(建物)などが無くなってから、記事(ストーカー?)などを書いている人がいるんだろう。
当時、家の飾ってあった(琉球)人形なども、いまはないし、かなーり前にない。
812日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:56:35.47
そういう写真などがあるでしょ、盗んだりしている人がいるとか?
ネガのようなモノとか。
覚えていないんだけど、当時w
船の模型のようなものも飾ってあったし、家のテレビの上w
813日本@名無史さん2019/12/04(水) 17:58:26.17
なんの反論も出来ないキナイコシが白旗(松傾)を上げてますよw
814日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:00:33.08
それにしても、チェーンソーのゲームが正解、
主人公は渡来人だと言っているしw頭が悪いんだろう。
815日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:01:35.92
>>806
>うっかり「郭務悰の着任地」を筑紫都督府と書いてしまった<
>日本書紀の認識では郭務悰は百済の鎮将劉仁願の私使というものだから、
唐の皇帝が与える称号である都督の言葉を日本側が用いる理由がないと思われる。<
そうでしょうね。
書紀はついうっかり「筑紫都督府」という文言を書いてしまったのであり、
それは、九州倭国にも中国にも、以前に倭国王の濟と武が都督を受けていた、
という記憶があり、白村江の後に半島に置かれた都督を見て、
筑紫の郭務ソウらの陣地を「筑紫都督府だ」と書いてしまったんでしょうね。
>都督は軍政を司る中国の官名であり、日本式の太宰の帥(だざいのそち)を、
格好よく筑紫都督府と書いたに過ぎないようにみえるがな。<
太宰と都督とでは、地位が全く違いますよね。 816日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:02:21.66
>>812
松傾とかワケワカランことを呟く九州説は
気が狂ってるんだろうな
間違いなかろ 817日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:03:03.95
『西王母 北辰』
こういうのも、ほとんど家の話だしw
818日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:05:11.74
お前たちの書き込み?そういうものは相手にされていないんだけどw
なぜだと思う?
819日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:07:28.10
820日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:09:34.45
>>815
>書紀はついうっかり「筑紫都督府」という文言を書いてしまったのであり、
>それは、九州倭国にも中国にも、以前に倭国王の濟と武が都督を受けていた、
>という記憶があり、白村江の後に半島に置かれた都督を見て、
>筑紫の郭務ソウらの陣地を
そんな場所に唐の県令が境部石積を送って来るわけないだろ
筑紫都督府は大和政権が置いた大宰府の唐名だ
誰でも知ってる
歴史音痴な九州説のトンデモ珍説は笑い者だぞ 821日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:10:32.78
かなり前から気付いているだろう、
邪馬台国〜とか、そういう話をしているわけでもないしw
『西王母 北辰』
ふなっしー?、不明、・・・、中華(中国)なんだろうと言っている人がいたでしょ。
822日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:11:55.00
>>820
>筑紫都督府は大和政権が置いた大宰府の唐名だ
倭国(阿波)から遷都した、8世紀の大和朝廷ね。 わははははは @阿波 823日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:14:48.87
よくわからない話(創作)とか、
系図なども勝手に作成(創作)したり・・・と言っている人もいるし、いるでしょ?
なぜ、わかるんだと思う?
824日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:18:55.98
>>819
あたまの狂った九州説の棲家なんぞ行きとうない 825日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:19:42.54
家(本人)ではなく、赤の他人が創作(作成。系図なども。)した話だから、
それは正解、間違っているとわかるんだよw頭が悪いんだろうw
826日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:26:42.24
気付いている人は気づいているんだよw
頭が悪いんだろう?
827日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:35:14.25
いま、この書き込みをしている家(人物)があるでしょ?
どこに住んでいるんだと思う、写真なども貼り付けていたり。
頭が悪いんだろう?
828日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:37:15.77
829日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:38:20.95
>>820
>>書紀はついうっかり「筑紫都督府」という文言を書いてしまったのであり、
それは、九州倭国にも中国にも、以前に倭国王の濟と武が都督を受けていた、
という記憶があり、白村江の後に半島に置かれた都督を見て、
筑紫の郭務ソウらの陣地を<
>そんな場所に唐の県令が境部石積を送って来るわけないだろ
筑紫都督府は大和政権が置いた大宰府の唐名だ 誰でも知ってる
歴史音痴な九州説のトンデモ珍説は笑い者だぞ<
それなら、大和政権は書紀に「太宰府」と書けば済んだ事。
しかし、書紀は「筑紫都督府」と書かなければならなかった、というのが史料実態。
そして、では書紀は何故「筑紫都督府」と書かなければならなかったのか?、
というのが、私の投稿。 830日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:43:03.54
『311 大震災』
きたろー(不明)、
あと手に『扇』のようなものを持っている人物が出てきたときだったでしょ?
地震の起きた時期、あと何かのドラマとかwww?
831日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:43:21.09
>>829
>では書紀は何故「筑紫都督府」と書かなければならなかったのか?
畿内説に代わってお答えしよう。
「筑紫都督府」の場所が、九州大宰府ではないから! 以上。 わははははは @阿波 832日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:45:11.13
>>456
>里が1/5なのだから、歩もそうなんだろう。
>平原遺跡でいいよ。
歩も五分の一だとしても、平原1号墓は12メートルしかないから足りないんだなww
それに、歩を五分の一の縮尺にするという時点であたまがおかしい
歩は、元が身体尺だから、大きく狂うことは許されない 833日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:45:37.75
そのサイト、ブログ?など・・・工作員だろうw
他にも同じようなブログ(サイト?)があったり。
834日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:50:09.35
>>458
>邪馬台国と投馬国は領域国家だろう。
これは、たぶん正しいと思う
だが、それなら奴国も領域国家だろう
奴国首長家後裔の筑紫君が八女古墳群をその墓所に選んでいることからも
奴国は単なる福岡平野だけの国ではなく大宰府あたりを抜けて筑紫平野の
上部まで含んだ領域国家と見るべし
そうすれば万戸を超える国は領域国家と見る統一的な見方ができる
>ならば邪馬台国の内訳に奴国が含まれる。
こういう二重帳簿詐欺が、九州説の捏造体質
内訳なんていう概念は魏志倭人伝には含まれません 835日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:51:19.01
精神科に行くか、刑務所に行くか、
決めたほうが良いんじゃないのか?
wwwwwwwwwwwwwwww
すでに死んでいるとか?
836日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:52:38.56
>>829
>では書紀は何故「筑紫都督府」と書かなければならなかったのか?
畿内説に代わってお答えしよう。
「筑紫都督府」の場所が、九州大宰府ではないから! 以上。 わははははは @阿波 837日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:52:53.83
>>462
>畿内説の場合でも陸行一月だと紀伊半島の先っぽより南だぞバーカw
歓待を受けながら2日で10キロ程度(あるいは4日に一度20キロ)進む速度で
ちょうど着くんだよ
合わせて見ると、丹後半島の遺跡分布の理由が見えてくるだろ?7 838日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:56:47.95
>>828
畿内説の人間が、畿内説のスレ荒らすとか
狂ったこと言いふらす男が
正常なわけないよな
お前の話だが 839日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:57:34.74
『』内があるでしょ?
検索して、調べた記事(ページ)しか読んでいないから、
同一人物のサイトなのか、別人のものなのか、わからないんだけど。
なぜか知っているような・・・、どこかで聞いた、見た、話した?
そういう話ばかりしているし。
べつに、なんでも良いんだけど・・・工作員だろうw
840日本@名無史さん2019/12/04(水) 18:57:45.24
>>466
>女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある。
そのとおりだよ?
原文は『女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種』
紀伊半島中央の女王国から、伊勢に降りて、そこから東に渡海千里(1航海=千里:実測値じゃないよ)の
ところにも、倭人が国を作っているってだけ
まあ、魏略と合わせて考えると、それ以前に倭人の住むところは島が列島上に存在していて
その島と島の間の海峡を渡ってもその先も倭人の住む場所だっていう単なる倭地の地勢の紹介なんだが
>はい畿内説終了。
だから、畿内説終了にはならないんだなww
論理的につながっていないw 841日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:01:12.17
>>471
>出雲は博多から見て明らかに「東」である。
魏志倭人伝の方位は、現実の地理に合わないのは広く知られているところ
陳寿は帯方郡から順に遠ざかる方向に地理を記述しており、それを
会稽東冶之東という思い込みに合わせるために南と書いている
博多から遠ざかる方向が、魏志倭人伝における南でいいんだよ
>はい、畿内にたどり着く根拠崩壊ですね。
だから、これは論理的につながっていないww
これが認められない幼稚な人間の戯言w 842日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:02:57.56
>>473
>卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
12世紀の半島史書が九州説の大事な根拠なんですね?ww
三国史記が端から端まででたらめとまでは言わないけれど、12世紀の史書で3世紀のことを語るのは無理
騙ることはできるけどさww 843日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:06:17.75
>>477
>伊勢・東海系:49%
纏向遺跡で出土する土器の85%は在地の土器
外来土器は他の遺跡の追随を許さない高率だが、それでも全体の15%程度だ
49%というのはこの15%の内側での比率で、伊勢と東海系を区別しないものだ
伊勢と東海を仮に半分ずつだとすると、東海の土器の纏向遺跡での比率は3%程度になる
実際には伊勢の方が近い分だけ伊勢の土器のほうが多い
どうして纏向遺跡が東海勢力遺跡だと考える人がいるのか不思議でしょうがないw 844日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:06:56.23
もれ(仮)が使用しているタートルズのマグカップ、
当時、ジョナサンでもらったモノだしな・・・、いまだに使用しているw
タートルズの映画がやっているころ?
知っている人は知ってる、知らない人は知らない・・・、
どうでも良い話。
845日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:09:33.37
>>843
>どうして纏向遺跡が東海勢力遺跡だと考える人がいるのか不思議でしょうがないw
ぜんぜん不思議でない
だって九州説ばかだもん 846日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:12:35.99
『ニンジャ タートルズ マグカップ』
>ヤフオク!激レア・・・
これと同じデザインw当時、ジョナサンでもらった。
歩いて十秒くらいのところにあったジョナサン。
847日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:15:48.73
>>840
>紀伊半島中央の女王国から、「伊勢に降りて」
はい、山越えで即アウト! @阿波 848日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:16:36.66
>>521
>鉄鏃などの鉄器は弥生土器のでた住居から見つかっている。
板倉遺跡の発掘報告書ざっと見たけれど、細かな層位判定等はしていなくて、
年代観は出土した土器で大体判定しているだけだぞ
開発に先立つ記録のための発掘で、いろいろと制約のある中でのもので
表土を重機で剥がすなど突貫での発掘になっている
そして、平地の遺跡ではないので溝などからの出土物は流入遺物も多いとしている
「須恵器については、竪穴住居内部から出土したものがもっとも多く見られる。
さらに表面採集の須恵器が比較的多いことは、すでに経過でも触れたが、古墳と
誤解する背景の一つとなったものである。なお須恵器の時期は、古墳時代後半か
ら末のものと奈良時代後半のものという大別して2時期のものが認められるよう
である。」
「また鉄滓の出土である。これらは弥生時代まで遡る可能性のある遺構からの出
土は見られず、いずれも奈良時代以降と見られる遺構からのものであった。」
弥生時代の遺跡から鉄器が出てるぞと威張れるような遺跡でもないと思うんだが?
竪穴住居だから弥生時代って短絡してないか? 849日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:18:10.33
さいきば事件(不明)も同じような話をしているし、何なんだろう。
嫌がらせ・・・?だと言っている人達もいるし。
>亀がいるよ
850日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:20:04.01
>>529
>伊都国から100里の奴国は糸島から6km
>の早良平野だろ。
百里が6キロってのが、この時点で無理があるって早く気づくといいねw
魏志倭人伝の記述が正しいといいながら、九州説の地理観がどんどんでたらめになっていくw
短里があってちゃんと測定したってのはどうやっても無理
851日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:21:43.35
『浦島太郎』
852日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:24:50.17
『うらしまマリン』『未来 うらしまん』
853日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:28:44.02
>>802
>一度だけ宇治まで来て
確かに宇治で閲兵したと書いてあるな。
唐使は近江まで行っただろう。
しかし、唐会要が書いている「正北抵新羅」などの地理観は、3世紀の倭人伝に書かれている倭国の地理観であることに変わりはないね。
その倭国の東千余里のあたりに宇治があるわけで、唐使は魏略や倭人伝の女王国の東千余里にある倭種の国に都があるんだなあと思ったのではないの。
そのことは、唐会要には反映されていないということにすぎんな。
中国では、前にある史書に書いてあることは変更したがらないのよ。
それで、卑弥呼の倭国の地理観を踏襲したということだろう。 854日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:30:18.54
以前から書いていることなんだけど、お前の名前はw
ちなみに『うらしまマリン』『未来 うらしまん』
王母 龍宮〜・・・・・同じ家でしょ?なぜだと思う。
855日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:31:55.43
>>848
>板倉遺跡の発掘報告書ざっと見たけれど、細かな層位判定等はしていなくて、
>年代観は出土した土器で大体判定しているだけだぞ
なら畿内説に抵抗しようとして
板倉B持ち出した
九州説が死亡だ 856日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:35:16.72
奥山 トンズラしましたか
ここまでありがとう 妄想奥山
スレ閉めどきかもしれません
楽しませていただきました
マキムクから畿内説はおかしくなりました
マキムク王都説を唱えるのは一部の学者と、一部の地方自治体ですね
桜井市政はマキムクなんてどうでもいいかもしれませんが
こういうところから税金の無駄遣いが出るのですよ
857日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:36:53.14
>>558
>ここ数日の鉄論争はキナイコシの完敗で閉幕
残念ww
それは大嘘だw
纏向大溝の矢板に鉄器による加工痕があるのは専門家の観察
九州説の石器で作ったの根拠は二次資料の矢板の一部の写真を見て
先が丸まってるから石器で擦ったに違いない、石器で作った可能性が高くなってきた
というかなり頭の悪い「主観」というがご都合主義の思い込み「だけ」
Part530 990
「非常になめらかな曲線を描く形状だ。
砥石で擦り削ったのだろう。」
この根拠として出してきた
『奈良時代の奈良盆地とその周辺諸国の森林状態の変化(III) 丸山岩三』には
「護岸工事用の矢板類はおよそ,
矢板 10,000枚 (幅25 cm,長 さ150 cm,厚 さ1 5cm)
杭 1,300本 (径 15 cm,長 さ150 cm)
横木 500本 (幅 12 cm,厚 さ3cm,長 さ5m)」
とある
金属器と石器の作業効率の差(金属器のほうが圧倒的に高い)を考えても
石器で矢板10,000枚を作ったと考えるのはかなりのバカ
石斧が弥生後期にはないに対する反論で出してきた「飯田盆地における弥生時代の石器 山下誠一」では
気がついていないだろうが、内陸の長野県でも鉄器を普通に使っていることが書かれていて
内陸だから纏向遺跡には鉄がないという九州説の主張が破綻している
「石器の消長から長野県のコメ作りと栽培を考察し、北信の鉄器と多量の木器による大規模水田による稲作文化と、
南信の多量の石器と鉄・木器によって畑や水田を経営する稲作・畑作混合文化に分かれるとした (町田 1994)。」 858日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:39:02.11
>>832
>歩も五分の一だとしても、平原1号墓は12メートルしかないから足りないんだなww
平原1号墳の大きさは、どこの部分の長さなの? 859日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:39:33.30
何が板倉だよwもれ(仮)には、そんな知人はいないし。
父親、祖父・・・その前?
詳しいことは、わからないんだけど、
当時、そういう知り合いがいたりしたのかな?
860日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:40:01.27
>>581
>鉄は特殊な環境下じゃなければ全て溶けるとか
>言ってた奴がいただろw
これが正しいんだよ
鉄は、中性の土中で年に0.05mmの速度で錆びにより減肉していく
2000年前のものは残らないのが当たり前
残ってるのがあるにだーって言うのは、実は特殊例を一般化する詐欺師の論法 861日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:41:18.56
>>584
>陸行一月は、郡から女王之所都までの行程の内の、陸行部分の所要日数。
では、九州説での「郡から女王之所都までの行程の内の、陸行部分」がどこに当たるのか、
ご教示いただけないでしょうか? 862日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:45:03.94
>>600
>九州本島と同じ位の馬韓が「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」であり、
>九州島の周辺島嶼を含めれば、15万余戸は、十分入ります!
またでたらめ書いてるw
二重帳簿詐欺で奴国の人口から余傍国20国の人口までかき集めて、邪馬台国七万戸を
ごまかしても、今度は投馬国五万戸で詰むんだよw
具体的な投馬国と邪馬台国の比定地を挙げてごらん
投馬国は女王国より以北の国も忘れずにね! 863日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:45:20.42
これは奥山君とは関係ないでしょうが
まずは 桜井市のやるべき事
桜井市埋蔵文化センターが巻向学研究センターの役目も果たせるのだから
包括すればいい、地方に二重行政は必要ないです
桜井市は赤字財政です。
864日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:45:53.11
これも当時の話(老婆談w)なんだけど、
亀戸に行ったりもしたと言っていたり、タートルズの話?
どういう話なんだろう
865日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:47:05.80
>>834
>奴国は単なる福岡平野だけの国ではなく<
これ、間違い。奴國は日向峠西麓の平野部〜早良平野部付近。
>福岡平野だけの国ではなく大宰府あたりを抜けて筑紫平野の
上部まで含んだ領域国家と見るべし <
その福岡平野の中央部から筑紫平野、及びその周辺丘陵部が邪馬壹國。 866日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:47:27.39
そもそも鉄が貴重品で大事な財物だったなら、魏の皇帝がたくさんくれるだろうに
今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。
又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、
真珠、鉛丹各五十斤。
鉄の刀は2本くれてるけれど、特に鉄が大事なんていう感覚はないよ?ww
867日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:49:47.36
伊達郡(川俣町)という謎の掲示板。
家と同じ?話をしていたり、
当時、何やらという家があって・・・機織り・・・亀戸天神が〜とか。
868日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:50:16.62
>>837
>歓待を受けながら2日で10キロ程度(あるいは4日に一度20キロ)進む速度で
ちょうど着くんだよ・・・・・・
合わせて見ると、丹後半島の遺跡分布の理由が見えてくるだろ?7<
「南≠東」などに拠って、×。 869日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:50:24.11
>>618、>>619
ここに来ている九州説の連中は学問的な真理の探究とか
歴史の真実を知りたいといった動機を持っていないんだよ
畿内説側が、科学としての正しさ、妥当性、整合性を重視するのに対し
とにかくエラそうにしたいというのが九州説の動機だから、話は最初からかみ合わない 870日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:51:46.50
>>623
放射読みで読む必然性がどこにもないから、投馬国を経て邪馬台国に向かうんだよ 871日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:53:32.11
>>840
>原文は『女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種』
紀伊半島中央の女王国から、伊勢に降りて、そこから東に渡海千里(1航海=千里:実測値じゃないよ)の
ところにも、倭人が国を作っているってだけ<
「紀伊半島中央の女王国」というところが、「南≠東」などに拠って、×。 872日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:53:39.79
>>634
>200回調査で特筆べきものが出てこないのも事実
一回ずつの面積が小さいからね
工業団地の予定地で何もないところを大々的に発掘できる九州とは訳が違うw 873日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:55:06.33
>>635
>軽はずみすぎる投稿はもうやめたら
>そんな事実は無い
九州説側から、これを否定する根拠は提出されてないよ?
弥生中期から続く遺跡から出土したって話しか、出してきていない
弥生中期に石斧があるのは当たり前 874日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:56:58.60
>>658
>纒向がその流れから遅れているだけだよ。
遅れてないよ?
ああ、年代詐欺をしているから、遅れているように見えてしまうのかww
九州説マッチポンプの典型ですね! 875九州・阿波に問う2019/12/04(水) 19:57:55.83
九州も阿波も
畿内説のスレだから、で他説について言うのはおこがましいがだけど
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
これに合致する遺跡がないだろうが・・・・
876日本@名無史さん2019/12/04(水) 19:59:01.67
>>665
>読む価値が無いのだろうかなww
専門家はちゃんと読んでるよ?
読解力のない九州説の素人爺さまが、読まない見ない認めないって言っているだけw 877日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:04:07.98
『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』
wiki 調べてみた?よくわからない話ばかりでしょ。
878日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:04:57.24
>>806
>都督は軍政を司る中国の官名であり、日本式の太宰の帥(だざいのそち)を格好よく筑紫都督府と書いたに過ぎないようにみえるがな。
大事な役職名を間違えるわけがない。
敗戦国の中で倭だけ都督府が置かれなかったはずかない。
ただ、なぜか唐の側でも記録が削除されたのだろう。
日本国への引き継ぎの中で何か取引があったのかもしれない。 879日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:06:10.16
>>820
>筑紫都督府は大和政権が置いた大宰府の唐名だ
根拠なし。
都合のいい妄想ですね。 880日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:07:03.83
>>675
>大型の建物が一つしかなければ、大型建物群ではない。
この句点を律儀に打つ「邪馬台国の会」の中の人、日本語が不自由すぎるだろう?ww
大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
ただ、建物が複数あるだけではなく、一定の意図を持って群として建物が存在する場合が建物群
辻地区の建物群の場合は、柵で囲む軸線を揃えて一直線上に並べるという意図が明確なので
重要な建物群であるのは明白
その上でその建物群が大型かどうかというのは、それを記述する人の主観が入る部分ではあるけれど、
当時最大の床面積を持つ建物を含み、建物Fまで東西200メートル以上もあれば大型建物群とするのが
普通の判断だろう 881日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:07:31.04
>>850
参考にします
私は短里は比例計算だと思ってます
韓伝からはじまり倭人伝まで比例計算的には
1里70M程度でしょうが
里数の表示でなく日数でいけば北九州から遠く離れた地だと??? 882日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:08:14.93
>>834
>だが、それなら奴国も領域国家だろう
奴国は距離も明記された単一の国邑だよ。
福岡の市街地は境目なく続いていた。
こういうのを大都市という。 883日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:09:17.41
>>866
>鉄の刀は2本くれてるけれど、特に鉄が大事なんていう感覚はないよ?ww
そりゃそうだよ。 倭国(阿波)では、朝鮮半島までやってきて、「鉄てい」をバンバン手に入れているのを知ってるんだから。 わははははは @阿波 884日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:12:15.99
>>875
今現在、どこにもないよ。
あるとすれば、矢野遺跡だよ。 @阿波 885日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:12:30.54
>>701
>キナイコシはあたかも纏向の土壌は鉄が溶けやすいかのような発言を繰り返していたから、五十歩百歩
土壌で相対的に鉄が溶けやすい土があるのは事実だけれど、溶けにくい土だから鉄が残ったというのは間違い
それ以外の、酸素がほとんどない密閉環境だった(粘土による密閉)とか、土との接触の
少ない閉鎖空間だった(甕棺の中、古墳の埋葬主体の中)とかの、残りやすい環境中にたまたま置かれたものだけが
残ってるんだよ
九州の土でも、1800年前の鉄がそのまま残っているなんていうのは絵空事に過ぎない
どうして九州説ってバカしかいないんだろう?
まあ、バカ以外はみんな九州説から離れた結果なんだからしょうがないかな 886日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:12:53.09
またキウスが暴れ始めた
887日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:13:41.10
>>782
>珍棒くらいは使っていたのじゃないか。
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、
その一大製作遺跡であると考えられている。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 888日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:13:43.21
>>843
>纏向遺跡で出土する土器の85%は在地の土器
つまり各地から纒向に人が集まって来たというのはキナイコシのウソに過ぎなかった。 889日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:13:44.34
>>857
あなたの根拠づけをするには
>
纏向大溝の矢板に鉄器による加工痕があるのは専門家の観察 <
その専門家の名前と出典を示すほうが皆の参考になると思います 890日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:14:22.94
>>801
>尾張が瀬戸内海にアクセスするのは
そもそも、それが妄想! 尾張忌部が瀬戸内海にアクセスする訳がない! わははははは @阿波 891日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:14:34.29
>>841
>魏志倭人伝の方位は、現実の地理に合わないのは広く知られているところ<
大和説学者らや、類スレ主らが、
魏の役人らが嘘つき騙し報告を書いた、というような・・・・アホ詐欺論を主張している、
という事はよく知られているところ。
>陳寿は帯方郡から順に遠ざかる方向に地理を記述しており、それを
会稽東冶之東という思い込みに合わせるために南と書いている
博多から遠ざかる方向が、魏志倭人伝における南でいいんだよ <
陳寿が書いたのは「会稽東冶之東」ではなく「会稽東治之東」であるから、
この男(類スレ主)が、インチキ詐欺師であり、
また郡からの行程は、陳寿が創作したものではなく、魏の役人らが実地に見聞計測した記録であり、
この点でも類スレ主らは、・・・・詐欺師人種。
>だから、これは論理的につながっていないww
これが認められない幼稚な人間の戯言w<
「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
行程説明における順次式の説明、という人類の常識や、先頭の説明である事に拠って、
末盧國からの出発時点での出発方向説明であり、
また途中でも伊都国方向は全く見えないから、方向を計測する事も不可能なのであり、
だから、この類スレ主の地図や説明がインチキ詐であった、という事になる。 892日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:14:44.84
>>843
>どうして纏向遺跡が東海勢力遺跡だと考える人がいるのか不思議でしょうがないw
では纒向は孤立した寒村で、王都からはほど遠い。 893日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:14:51.77
>>820
>筑紫都督府は大和政権が置いた大宰府の唐名だ
倭国(阿波)から遷都した、8世紀の大和朝廷ね。 わははははは @阿波 894日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:15:12.00
>>829
>では書紀は何故「筑紫都督府」と書かなければならなかったのか?
畿内説に代わってお答えしよう。
「筑紫都督府」の場所が、九州大宰府ではないから! 以上。 わははははは @阿波 895日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:15:47.90
>>719
>奥山さん すっとボケてるの?ボケた?
>これ君の投稿じゃないの
まだ理解できていないのかな?
鉄の残り方は実測値で6倍違う場合があるという実証データがあって、
6倍違わなかったところで、1800年後の量から1800年前の量が想定できると考えるのは
バカの所業ってことが明確に示されているだろ?w
それが分からないから、九州説はアンチ科学でかつ科学オンチなんだよw 896日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:16:23.05
>>840
>紀伊半島中央の女王国から、「伊勢に降りて」
はい、山越えで即アウト! @阿波 897日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:17:46.49
>>745
>あれま?、そうだったんですか?。
もちろん、ウソだよww
九州説お得意のでたらめの書き逃げ
まあ、ザラゴキがいくら誤解したところで世の中には何の変化もないのだけれど 898日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:18:06.07
@阿波さん
人格は変わってないと思いますが
899日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:19:22.82
900日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:19:43.43
>>754
>地域差が明確に存在する。
これが、鉄器の「出土量」をもとにした間違った見積もりww
>後期の大和では加工用鉄斧を保持した工人集団の存在は考えにくく、加工用石斧が在地工人によって使われていたと考えるのが妥当。
だから、こんな妄想に陥っちゃうんだよ
土器様式まで統一している河内と大和の間に線を引こうというのが最初から無理筋 901日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:22:23.86
>>763
>この時期には、大和で鉄器は一個しか出てないのだが、こちらはどうするのよ。
唐子鍵でも出ているし、どうしてあるものを見ないのかねぇ
有井遺跡よりも、唐子鍵の方が地理的にも近いだろう?
どうして、纏向に鉄がなかったという想定になるのか、「九州説に都合が悪いから」以外の
理由がないんだが? 902日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:22:56.02
903日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:25:00.35
「キナイコシ」と「つぶやき」が出る時間帯
ずらしてくれるかな お互い迷惑だろwww
904日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:25:42.37
>>770
>そうでもないよ?
そう思う理由は?
辻土坑4(SD-1011)より大規模な祭祀遺構があったら教えてくれ 905日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:27:31.78
>>789
>登呂遺跡は鉄が溶けたという証拠があるのかな
登呂遺跡に鉄がなかったと主張している専門家なり、報告書、論文等があったら教えてくれ 906日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:28:31.67
>>844
>どうして纏向遺跡が東海勢力遺跡だと考える人がいるのか不思議でしょうがないw <
どうして、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」は波状的に起きて、出雲本土を避けて、
本体は、瀬戸内から河内や淀川沿いに近江に行き、更に東海から南関東まで進んで行き、
別動隊が、丹波や讃岐や阿波や紀伊や大和などを征服した、
という事が考えられないのか?が、不思議でならない。 907日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:34:07.29
>>942
だから、>>745で「あれま、そうだったんですか」とか間抜けなことを書いているのがザラゴキだろ 908日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:34:36.30
>>815
>太宰と都督とでは、地位がまったく違いますよね
太宰府の呼び名として「太宰の帥(だざいのそち)」があって、この「帥」は軍を率いる大将の意であり、その「太宰の帥」は太宰府の第一位者を指すことになるそうだ。
一方、都督は軍事と民政を司る軍政官のことだという。
これをみると、太宰府の役割である九州の軍事と民政を司る官庁を都督と表現したとしてもそう間違った表現ではないようにみえる。
しかし、筑紫の太宰府とせずに、なぜわざわざ筑紫都督と日本書紀が書いたのかという点については、岩波書店発行の日本文学大系「日本書紀」の注釈では「筑紫太宰府ををさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」と書いてある。
なお、隋では元々あった都督府のことを総管と称したが、この総管は太宰府の呼称であった総領とよく似ており、日本の総領は隋制の総管からとったものと考えれば、その隋の総管を唐は都督と呼称したので、日本も総領から都督と変えたことも考えられる。
したがって、筑紫太宰府の呼称として筑紫都督の呼称もあったことが推測される。 909日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:36:25.63
>>848
>>鉄鏃などの鉄器は弥生土器のでた住居から見つかっている。<」
>板倉遺跡の発掘報告書ざっと見たけれど、細かな層位判定等はしていなくて、
年代観は出土した土器で大体判定しているだけだぞ
開発に先立つ記録のための発掘で、いろいろと制約のある中でのもので
表土を重機で剥がすなど突貫での発掘になっている
そして、平地の遺跡ではないので溝などからの出土物は流入遺物も多いとしている
「須恵器については、竪穴住居内部から出土したものがもっとも多く見られる。
さらに表面採集の須恵器が比較的多いことは、すでに経過でも触れたが、古墳と
誤解する背景の一つとなったものである。なお須恵器の時期は、古墳時代後半か
ら末のものと奈良時代後半のものという大別して2時期のものが認められるよう
である。」
「また鉄滓の出土である。これらは弥生時代まで遡る可能性のある遺構からの出
土は見られず、いずれも奈良時代以降と見られる遺構からのものであった。」<
ふーん。 910日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:37:25.10
>>880
?????????
あなたの考える群と世間の考える群との違いでしょう
「群」一般論を展開しませんか 911日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:39:24.32
>>880
学者の誰も言っていないことを主張して、日本語の意味まで捻じ曲げるキナイコシ 912日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:40:20.05
群論についての討論が、始まったのだろうか、、、
913日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:43:27.58
914日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:44:57.63
>>912
無限次元リー群が、どのように定義された物事だったかを、完全に忘れてしまったな、、、 915日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:45:13.12
キナイコシ
仕事ないんだろうな
昼寝もいいけど
916日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:46:30.93
917日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:47:59.12
>>908
屁理屈を積み重ねないと説明できないのか? 918日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:53:13.60
このスレッドで、討論されている群とは、どのような群なのだろうか、、、
919日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:54:58.84
>>901
>唐古鍵でも出ているし
その1個が、唐古鍵の加工用鉄斧なのよ。
大和で出た鉄斧は、この1個。
周辺でも鉄斧が出てるというのなら鉄斧が大和でも普及していたと言うことができるが、これ1個だけだとすると、この鉄斧は超貴重な飾り物だった可能性があるよ。
飾り物は、実際には使わない。
それにひきかえて、弥生後期の加工用石斧は大和で複数出てるからね。 920日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:57:54.01
>>908
>では書紀は何故「筑紫都督府」と書かなければならなかったのか?
畿内説に代わってお答えしよう。
「筑紫都督府」の場所が、九州大宰府ではないから! 以上。 わははははは @阿波 921日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:59:00.20
減少率が、6倍違うということだけでは、減少率自体の実数は不明のままなので、減少量の実数同士の差も不明のままだということが、邪馬台国畿内説の立場の者達には、理解できないのだったな、、、
895日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:15:47.90
>>719
>奥山さん すっとボケてるの?ボケた?
>これ君の投稿じゃないの
まだ理解できていないのかな?
鉄の残り方は実測値で6倍違う場合があるという実証データがあって、
6倍違わなかったところで、1800年後の量から1800年前の量が想定できると考えるのは
バカの所業ってことが明確に示されているだろ?w
それが分からないから、九州説はアンチ科学でかつ科学オンチなんだよw 922日本@名無史さん2019/12/04(水) 20:59:34.93
>>880
お前の言語感覚が悪いだけ
アホだから仕方ないけどな
高層ビル一棟あって、その周りに関連した低層ビルが立っているところがあったとして、
お前はそこを高層ビル群と呼ぶのか?という話だ
こんなクソ簡単なことも理解できないから纏向信者になるのだろう 923日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:01:12.68
>>921
邪馬台国畿内説の立場の者達は、指数関数的減少という物事を、学習したり、試験されなかったのだったな、、、 924日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:05:30.75
>>921
邪馬台国畿内説の立場の者は、卑劣な嘘つきか、頭の悪すぎる者かの、どちらかなのだったね。 925日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:06:55.17
巻向には、掘立小屋群があったのだったね。
926日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:08:35.78
>>925
その内の一軒は、少し大きめの小屋なのではないのかな。 927日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:10:59.54
>>861
>>陸行一月は、郡から女王之所都までの行程の内の、陸行部分の所要日数。<
>では、九州説での「郡から女王之所都までの行程の内の、陸行部分」がどこに当たるのか、
ご教示いただけないでしょうか?<
歴韓國作南作東と、對海國と一大國のそれぞれの二辺の見聞陸行と、
末盧國からの陸行部分の合計。 928日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:12:07.07
指数関数的な減少は、複素数を扱うために拡張されたζ関数と関係性があるのだったな、、、
929日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:17:25.44
複素数を扱うために拡張されたζ関数は、嘘つき騙しにならないように、無限和としては慎重に表現しなければならないのだったな、、、
930日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:19:53.87
>>900
>これが、鉄器の「出土量」わもとにした間違った見積もり
あれれぇ〜。
学者が作った鉄器分布地図をもとに、そうした地域差その存在について言っているのに。
んじゃ、何をもとに地域差があったと推定するのよ〜。
>土器様式まで統一してる河内と大和の間に線を引こうというのが最初からの無理筋
河内で鉄器は少ないながらもあちこちで出土しているけど、大和では唐子鍵の加工用鉄斧1個だけ。
この差は何なのというわけ。
鉄器に関しては、河内と大和の間には明確な地域差があったということにならないけ? 931日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:20:13.91
魏志倭人伝を扱うために拡張された考古学は、嘘つき騙しにならないように、推論としては慎重に表現しなければならないのだったな、、、
932日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:23:43.40
>>920
書紀が「筑紫都督府」と書かなければならなかつたのは、格好つけたかっただけ。 933日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:32:28.49
放射読みでいいんでないの?至から伊都で到。そんで至、だから目的地は伊都。ここが共立の都だよ。大体壱岐対馬でさえ一国扱いなのに奈良まで何ヵ国あんのよ
934日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:34:19.16
>>869
ここに来ている大和説の連中は学問的な真理の探究とか
歴史の真実を知りたいといった動機を持っていないんだよ
九州説側が、史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論という、
科学としての正しさ、妥当性、整合性を重視するのに対し
とにかく、「南→東」などの嘘つき騙しをしてまでして、エラそうにしたいというのが大和説の動機だから、話は最初からかみ合わない 935日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:37:22.60
おい、奥山氏、はっけよい。
936日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:39:46.81
>>857
>金属器と石器の作業効率の差を考えても
現代の工期の決まった仕事の効率と、工期のスパンがとても長いと考えられる3世紀前半頃の効率とを同じに考えるアホ。
効率のことなんかより、纏向の矢板が鉄器で削られたと言っている学者が誰か、はよアップしろよ。 937日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:46:09.26
>>848
報告書の100ページあたり読んでみろよ
弥生土器が出土した住居と須恵器が出土した住居をきっちり分けてるから。
そして鉄鏃などの鉄器が出土したのは弥生土器が出土した住居。
鉄滓は製鉄が本格化した少し後の住居からみつかっている。
そもそも副葬品などの特殊な条件下以外では100年もすれば鉄鏃はすべて溶けるという
説に対する反例を示したもので、これだけで弥生時代の北部九州の鉄量を測れるとは
思っていない。
>>855
君あかんわ
色々間違ってる 938日本@名無史さん2019/12/04(水) 21:50:33.62
>>788
>賛同
しかし、現実には矢板の表面はつるつるの滑らか表面であったのだ。
それは、つるつるにしておくほうが、矢板の損傷率が減るから。
デコボコにしておくとそのデコボコ部分に水がしみ込み易く、結果、矢板の腐る程度が早まるのだった。 939日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:01:25.98
柳営
宰相
亜相
黄門
金吾
940日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:04:26.67
纏向信者は大型建物が一つしかないのに、あえてそこを大型建物群と呼んでいる
よく知らない人が大型建物群という言葉を聞けば、大型建物が複数集まっていると勘違いするのは明白
纏向を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を使っているのだろう
これは日本国民に対する重大な背信行為である
纏向信者は詐欺師集団、反社会勢力、日本社会のゴミ屑も同然と言えよう
941日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:05:53.27
>>860
>残っているのがあるにだーっていうのは、実は特殊例を一般化する詐欺師の論法
そんじや、北部九州や熊本、山陰、丹後などは全部特殊例だとでも?
特殊例が広範囲すぎるじゃないかよぉぉぉぉぉ! 942日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:07:44.82
>>932
>>>920
>書紀が「筑紫都督府」と書かなければならなかつたのは、格好つけたかっただけ。
うっかり真実を削除し忘れたんだよ。
倭国の王都は筑紫にあり、白村江で敗戦してから置かれた唐の政治機構だからね。 943日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:09:58.05
>>930
>鉄器に関しては、河内と大和の間には明確な地域差があったということにならないけ?
正解だと思う。
土器から言っても、河内と大和にはなぜか交流が乏しかったことが明らかであり、「畿内」の周辺地域で鉄が使える時代にあっても、大和では鉄がほとんど使えなかった(まったくというわけではないが、明確な落差があった)。 944日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:13:01.62
纒向は入植者の監督が住んだ家だよ。
その名はミマキイリヒコ。
後に本来よりもずっと前まで大和に王都があったかのように見せかけるため、「天皇」に割り当てられて崇神天皇と追放された。
945日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:15:07.60
スレ初心者だけど、このスレの登場人物って以下であってる?
奥山=キナイコシ クソテンプレ考案者、嘘つき、詐欺師
ザラコク 謎の狂人、 不気味。恐らく奥山以外は誰も書き込みを読んでいない
連続句読点 恐らくガイジ
@阿波 恐らくキチガイ
キウス 誰か特定できません
つぶやき ガイジ
946日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:17:54.12
キウスは自演しまくりのキチ
947日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:19:22.61
948日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:20:00.69
>>942
>>書紀が「筑紫都督府」と書かなければならなかつたのは、格好つけたかっただけ。<
>うっかり真実を削除し忘れたんだよ。
倭国の王都は筑紫にあり、白村江で敗戦してから置かれた唐の政治機構だからね。<
成程。 949日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:24:36.10
伊都が中心で文章等を送ってる訳だから伊都から二十日で往復出来るとこだよ。福岡〜奈良は 600キロはあんだろ、アムステルダムからベルリン、ニューヨークからモントリオール、イギリスならスッポリ入っちゃうよ。紙切れ一枚にこの時代有り得ないだろ。誰が行かされてんだよ
950日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:26:05.28
日本書紀を信じた時点で
ひとことも書かれていない九州王朝はドボン
ザラコク溺死
951日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:28:01.51
ザラコクってどの人のこと?
952日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:28:53.01
キナイコシ無職wwwwww
953日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:35:46.97
そろそろ、次回のスレッドを、作成した方が、良いよ。
954日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:37:20.64
>>953
スレッドが途切れてしまわないように、大量に作成すれば、良いな。 955日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:38:32.79
>>951
特徴は
・アンカーだけでなく全文引用
・引用文末に<
・「嘘吐き騙し」が口癖
・オウム返しも得意技 956日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:38:33.20
>>947
>竪穴式住居が特殊な条件だということ?
「竪穴式住居」に住める人は、上位階級の人たちだけ。 @阿波 957日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:38:53.13
奥山の妄想テンプレあきたから、誰か次スレたててくれ
958日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:44:31.75
959日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:46:00.16
>>949
奈良から福岡まで全て倭だというのが無理すぎる。
他の東夷伝の国と釣り合わない。 960日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:46:57.59
>>801
>尾張が瀬戸内海にアクセスするのは近江から淀川経由だろう
尾張が大和で求めたのは、瀬戸内海から運ばれた貴重財。
日本海側からの貴重財を尾張は近江に求めたのと同じ。
尾張は直接瀬戸内海の勢力と関係しようとしたのではないな。
そういう西方からの貴重財が集まる拠点が近江であり、大和であったということ。
したがって、纏向に連合勢力の拠点が置かれたとき、一方の旗頭として尾張が多数の人員を纏向に送り続けたということだろう。 961日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:48:39.36
>>958
奥山氏が、時間を無駄にしないように、奥山氏に、スレッドを簡単に作成する方法を教えてあげたので、貴方は優しい人ですね。 962日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:49:36.89
>>960
>>一方の旗頭として尾張が多数の人員を纏向に送り続けたということだろう。
尾張忌部の分際で、頭が高い! 控えよ! @阿波 963日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:51:16.19
>>960
瀬戸内海からの荷も淀川から琵琶湖に入り、近江経由でいいんだよ。
近江が西方からの(筑紫からの)お宝の通過地なのはわかる。
その場合、大和は全く不要なんだよ。
山に囲まれているから荷など運べない。 964日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:52:12.89
アプローチとアクセスは、違う意味があるのだね。
960日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:46:57.59
>>801
>尾張が瀬戸内海にアクセスするのは近江から淀川経由だろう
尾張が大和で求めたのは、瀬戸内海から運ばれた貴重財。
日本海側からの貴重財を尾張は近江に求めたのと同じ。
尾張は直接瀬戸内海の勢力と関係しようとしたのではないな。
そういう西方からの貴重財が集まる拠点が近江であり、大和であったということ。
したがって、纏向に連合勢力の拠点が置かれたとき、一方の旗頭として尾張が多数の人員を纏向に送り続けたということだろう。 965日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:57:59.50
おい、奥山氏、はっけよい。
966日本@名無史さん2019/12/04(水) 22:59:55.56
23:00
967日本@名無史さん2019/12/04(水) 23:23:14.21
いずれの史書にもほとんど重要な役回りでは登場しない近江と尾張だが、考古学的には非常に重要だ。
しかし大和纒向はそうではない。
寂しい宮が一つ出ただけさ。
大和中心の皇国史観は捨てて、真の歴史を再構築しなくてはいけない。
その時に鍵となるのは、おそらく饒速日だろう。
968日本@名無史さん2019/12/05(木) 00:29:28.52
>>963
>山に囲まれているから荷など運べない
大和川を忘れちゃいませんか? 969日本@名無史さん2019/12/05(木) 01:00:52.56
九州です
970日本@名無史さん2019/12/05(木) 01:11:42.03
奈良から先はどうするんですか?
はるばる山を越えて津に出るのですか?
そもそも淀川と大和川では運送力の差は歴然としています。
しかも淀川経由なら長浜から上陸して関ヶ原を越えるだけで揖斐川に出ます。
陸路が最小限で済みます。
古代人が奈良経由のルートを利用することは、まずあり得ません。
関西の人ならわかるはず。
971日本@名無史さん2019/12/05(木) 02:23:23.75
>>970さん
誰かに質問する時は
番号を付記してください
半角で>>番号
すると皆が流れがわかりやすいです。 972日本@名無史さん2019/12/05(木) 02:31:00.03
>>921
その結論が
>九州説の頭のおかしい人以外は、纏向遺跡で鉄の出土量が少ない理由は
これで納得がいったでしょ? <
でしょ
結論の解説よろしく
過去ーーーーーーーーーー投稿ーーーーーーーーーーーーーーーー
582日本@名無史さん2019/11/30(土) 14:43:08.68
九州説の頭のおかしい人以外は、纏向遺跡で鉄の出土量が少ない理由は
これで納得がいったでしょ?
「2006年の文化財科学会で土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表されてから
マトモな頭の人は鉄器出土量で単純比較なんてしなくなった」
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
これでも納得がいかないとか、出土量が違うのは1700年前の使用量が違うからとかいう人は
高校生レベルの知的能力がないというカミングアウトでしかない
九州説の息の根がとまったといっていいんじゃない? 973日本@名無史さん2019/12/05(木) 02:35:48.82
9741 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/12/05(木) 03:08:02.27
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1575478910/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 975キウス2019/12/05(木) 03:21:58.42
登呂遺跡の鉄が溶けて無くなったというのは
どなたかのガセネタです
無くなっていれば、溶けて無くなった立証できません
鉄が溶けたという痕跡があれば、鉄が存在したことになります。
976キウス ◆PyuQX798ps 2019/12/05(木) 03:26:10.60
失礼しました やりなおします
「登呂遺跡の鉄が溶けて無くなった」というのは
どなたかのガセネタでしょう
無くなっていれば、正体不明で立証できません 無いのですから
鉄が溶けたという痕跡があれば、そこに鉄が存在したことになります
マキムクに、鉄が溶けたという痕跡があればいいのですが・・・
977日本@名無史さん2019/12/05(木) 03:57:45.08
978日本@名無史さん2019/12/05(木) 04:01:06.39
>>955
ザラ国氏は、過去の投稿を思い出させてる
貴重な方ですよ 979日本@名無史さん2019/12/05(木) 05:51:11.50
980日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:27:06.83
>>976
>無くなっていれば、正体不明で立証できません 無いのですから
無かったという証明もできないんだよ
基本的に溶けるもんなんだから 981日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:41:24.87
>>980
ようわからんが
どこの土地でもここに、3世紀に鉄があったと言っても
嘘にならないということか???
たとえば、○県×遺跡に3世紀 大量の鉄があった
溶けて無くなった・・・考古学で通用するの? 982日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:43:23.27
旧石器時代にも鉄が日本にあった
溶けて無くなった
そんな馬鹿な・・・・・・
983日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:48:30.48
登呂遺跡で鉄が溶けて無くなったのが本当なら
その証拠があるはずだよ。
それとも妄想?
記事なり貼り付けてもらうと良いのだが・・・
984日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:55:29.35
>>983
鉄が有った証拠は鍛冶炉遺構がもっとも有力!
「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ない後進県にも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 985日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:56:44.38
最近キウスの狂いっぷりが
輪をかけて酷くなってるな
986日本@名無史さん2019/12/05(木) 06:59:13.59
>>984
>鉄が有った証拠は鍛冶炉遺構がもっとも有力!
いや、むしろ最高文化・最強武力国の証拠だろう。 @阿波 987日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:16:39.51
人吉盆地に、狗奴国の本部があったのだろうか。
988日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:32:49.45
キナイコシの嘘はすぐばれるなww
989日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:45:48.87
梅
990日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:49:52.91
梅
991日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:51:50.29
992日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:54:21.94
993日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:56:12.00
梅
994日本@名無史さん2019/12/05(木) 07:57:27.28
狗奴国は、奄美よりも南にまでを領土にしていたのだったな。。。
995日本@名無史さん2019/12/05(木) 08:00:21.69
996日本@名無史さん2019/12/05(木) 08:13:59.14
畿内説の畿内とは、何世紀の畿内でしょうか?
997日本@名無史さん2019/12/05(木) 08:25:39.35
998日本@名無史さん2019/12/05(木) 08:25:49.18
999日本@名無史さん2019/12/05(木) 08:26:00.86
1000日本@名無史さん2019/12/05(木) 08:26:17.29
2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻した。
lud20220413122053ca
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