中国四大都市の北京・上海・広州・深セン。中国経済を牽引する「一線都市」を表す「北上広深」という略称を目にしたことがある読者も多いだろう。2017年のGDPランキングでは、上海(約3.0兆元)、北京(約2.8兆元)、深セン(約2.2兆元)、広州(2.1兆元)という順だが、最近、中国の人々の間で「深センは上海を超えるか」が関心事の一つになっている。
上海の経済的な強さについて、在京の上海出身のビジネスパーソンたちは、「大規模な国営企業と外資系企業の集積だ」と口をそろえる。振り返れば1992年の「南巡講話」以降、上海には“腕試し”に挑むチャレンジャーが海外から集まった。
一方、上海は2000年代の高度経済成長期を経て、2010年には万国博覧会の開催と、成熟社会への移行を図る。こうした過程の中で、「上海市は大規模投資を歓迎し、どこの馬の骨か分からない企業を敬遠するようになった」(東京在住の上海人経営者)ことも見逃せない。
当時、中国経済を牽引した上海は「アジアのホットスポット」として注目を集めたが、行政手続きも制度化され、安心安全重視の経営環境が整備される中で、かつての“混沌の中での挑戦”を生んだ都市からは卒業した観がある。中国では「深センはいずれ上海を上回る」という議論さえ出ているが、果たして深センの実力とはどれほどのものなのだろうか。
ご存じ、深センは珠海・汕頭・厦門とともに中国初の“経済特区”に指定された都市だ。1980年代以降の変遷を知る日本人駐在員が、「当時、深センは“ミニ香港”を目指した」と語るように、中国は深センに香港モデルを創設しようとした。
以降、幅数メートル足らずの細い川を跨いでのヒト・モノ・カネの往来が多くなる。1980年の特区指定から1997年の香港返還を経て、40年近い歳月が流れる今、2017年の深センのGDPは香港(2.67香港ドル)を抜いた。
深センは、意外なことに国営企業が数えるほどしかない。中央企業(=巨大国営企業)が集中する北京とは対照的だ。一説によれば、深セン市は国有企業育成に力を入れようとした時期もあったが、失敗したともいう。むしろ、深セン市が力を入れたのは“民間企業の育成”だった。
深セン市では、市が投資した初のハイテク企業が1993年に誕生。1994年には、無形資産評価管理法が生まれ1995年には企業技術秘密保護条例が制定された。R&D(研究開発部門)の創設にも積極的で、同年からはこれを設けた企業に500万元(約8500万円)の補助金を出すようになった。
1990年代前半といえば、北京や上海でも国有企業の労働者が多かった時代だ。高層ビルもクルマもまばらであり、パソコンさえ普及するのはまだ先のことだったこの時代に、深センには革新やイノベーションを意味する「創新」というキーワードすら存在した。
その後、深センでは独自の起業風土が醸成されていく。2006年3月13日付けの中国の産業経済紙「中国高新技術産業報」はこう伝えている。
「深セン市では企業を主体にした自主的な創新戦略を立ち上げ、冒険を奨励し、失敗を容認する創新文化を打ち出した」
深セン市でローエンドの製造業が始まったのは1980年代だ。その後、「設計は日米欧、生産はアジア」というグローバルな分業体制の中でOEMの受け皿として発展、90〜2000年代にかけて「ニセモノ問題」で物議を醸しながらも、海外からの技術を貪欲に吸収した。OEMから“自主ブランド”のイノベーションへの移行をうまく支えたのが、まさに“冒険奨励、失敗容認”の風土だったといえるだろう。
https://diamond.jp/articles/-/171387
上海の経済的な強さについて、在京の上海出身のビジネスパーソンたちは、「大規模な国営企業と外資系企業の集積だ」と口をそろえる。振り返れば1992年の「南巡講話」以降、上海には“腕試し”に挑むチャレンジャーが海外から集まった。
一方、上海は2000年代の高度経済成長期を経て、2010年には万国博覧会の開催と、成熟社会への移行を図る。こうした過程の中で、「上海市は大規模投資を歓迎し、どこの馬の骨か分からない企業を敬遠するようになった」(東京在住の上海人経営者)ことも見逃せない。
当時、中国経済を牽引した上海は「アジアのホットスポット」として注目を集めたが、行政手続きも制度化され、安心安全重視の経営環境が整備される中で、かつての“混沌の中での挑戦”を生んだ都市からは卒業した観がある。中国では「深センはいずれ上海を上回る」という議論さえ出ているが、果たして深センの実力とはどれほどのものなのだろうか。
ご存じ、深センは珠海・汕頭・厦門とともに中国初の“経済特区”に指定された都市だ。1980年代以降の変遷を知る日本人駐在員が、「当時、深センは“ミニ香港”を目指した」と語るように、中国は深センに香港モデルを創設しようとした。
以降、幅数メートル足らずの細い川を跨いでのヒト・モノ・カネの往来が多くなる。1980年の特区指定から1997年の香港返還を経て、40年近い歳月が流れる今、2017年の深センのGDPは香港(2.67香港ドル)を抜いた。
深センは、意外なことに国営企業が数えるほどしかない。中央企業(=巨大国営企業)が集中する北京とは対照的だ。一説によれば、深セン市は国有企業育成に力を入れようとした時期もあったが、失敗したともいう。むしろ、深セン市が力を入れたのは“民間企業の育成”だった。
深セン市では、市が投資した初のハイテク企業が1993年に誕生。1994年には、無形資産評価管理法が生まれ1995年には企業技術秘密保護条例が制定された。R&D(研究開発部門)の創設にも積極的で、同年からはこれを設けた企業に500万元(約8500万円)の補助金を出すようになった。
1990年代前半といえば、北京や上海でも国有企業の労働者が多かった時代だ。高層ビルもクルマもまばらであり、パソコンさえ普及するのはまだ先のことだったこの時代に、深センには革新やイノベーションを意味する「創新」というキーワードすら存在した。
その後、深センでは独自の起業風土が醸成されていく。2006年3月13日付けの中国の産業経済紙「中国高新技術産業報」はこう伝えている。
「深セン市では企業を主体にした自主的な創新戦略を立ち上げ、冒険を奨励し、失敗を容認する創新文化を打ち出した」
深セン市でローエンドの製造業が始まったのは1980年代だ。その後、「設計は日米欧、生産はアジア」というグローバルな分業体制の中でOEMの受け皿として発展、90〜2000年代にかけて「ニセモノ問題」で物議を醸しながらも、海外からの技術を貪欲に吸収した。OEMから“自主ブランド”のイノベーションへの移行をうまく支えたのが、まさに“冒険奨励、失敗容認”の風土だったといえるだろう。
https://diamond.jp/articles/-/171387