川島 今年9月3日、反ファシズム戦争勝利・抗日戦勝利の記念日にあわせ、北京で軍事パレードが
あることが知らされています。なぜ9月3日なのでしょうか。日本が戦艦ミズーリの艦上で連合国向けの
降伏文書にサインをしたのが9月2日で、その翌日に国民党政権が重慶で抗戦勝利パレードを行ったこと
に由来します。国民党を本土から追放した共産党政権は、当初8月15日に記念日を設定しましたが、
やがてソ連に合わせて9月3日にこの日を対日戦勝記念日と定め、さらに昨年の全国人民代表大会
(全人代)において、9月3日を「抗日戦争勝利記念日」、12月13日を南京事件の「国家哀悼日」にするという議案を採択しました。
第二次世界大戦後、ここに至るまでの歴史を振り返ってみます。
1945年の終戦時、大陸には日本陸軍が100万人以上いました。まず中国側はそれを武装解除して粛々と
日本に返していくわけですが、国民党、共産党ともに、日本軍を敵に回さないようにしていた面もあります。
1949年10月1日に中華人民共和国が成立し、中華民国が台湾に遷ると、世界に2つの中国政府が成立する
ことになりました。日本がどちらと講和し、正式な関係を結ぶのかが問題になったのです。台北からすると、
日本からの承認がどうしてもほしい。北京からすると、たとえ日本が西側陣営に入って台北を承認しようとも、
なんとか北京との関係を外交関係へと発展させていってほしい。こうした中で、東アジアが冷戦に組み込まれ
ていく過程において、中華民国政府が日本に「中国政府」として選択されることになったわけです。
?介石は1945年の終戦当時から、「軍民二元論」を提唱していました。これは戦争責任を一部の軍国主義者に帰して、
民間人の多くや一般兵士は被害者だとするもので、毛沢東もこうした考え方をもっていました。
ただ、蒋介石は対日賠償請求の準備はしていて、515億ドル以上の請求額をはじき出してはいました。
しかしアメリカの対日占領政策の転換によって、連合国は基本的に対日賠償放棄を決定し、サンフランシスコ講和条約
でも多くの国が賠償を放棄し、1952年4月28日の日華平和条約でも中華民国は対日賠償を放棄しました。
戦後70年を考える:歴史和解は可能か――日中・日韓・日米の視座から【下】
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