箸墓古墳から、発掘された4世紀後半の乗馬道具が、邪馬台国畿内説を破綻させてしまいましたね。
箸墓古墳から、発掘された4世紀後半の乗馬道具が、邪馬台国畿内説を破綻させてしまいましたね。
箸墓古墳から、発掘された4世紀後半の乗馬道具が、邪馬台国畿内説を破綻させてしまいましたね。
2013年に破綻した、畿内説を宣伝する係員のキナイコシが論破されてしまったので、邪馬台国の公式スレッドを、悪質な荒らし行為で埋め立てて、倉庫送りにしようとしているな。。。
箸墓古墳から、発掘された4世紀後半の乗馬道具が、邪馬台国畿内説を破綻させてしまいましたね。
箸墓古墳から、発掘された4世紀後半の乗馬道具が、邪馬台国畿内説を破綻させてしまいましたね。
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の底に、20年かかっって積もった固い土の上に、紀元後500年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
大規模調査で、纏向遺蹟は全体的には、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の底に、20年かかっって積もった固い土の上に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
大規模調査で、纏向遺蹟は全体的には、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の底に、20年かかっって積もった固い土の上に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
3つ目の理由
大規模調査で、纏向遺蹟は全体的には、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
箸墓古墳から、発掘された4世紀後半の乗馬道具が、邪馬台国畿内説を破綻させてしまいましたね。
日本史板の、邪馬台国畿内説 part402は、破綻した畿内説の宣伝係員が作製した重複偽物スレッドなのだけれどもね。。。
今朝も、破綻した畿内説の宣伝係員が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、論破されてしまっているな、、、
韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
連続句読点は、九州説の根拠だと思っていたものがすべて論破されてしまったので、
あせって、方々の板にまで出張して荒らしまくっているな
破綻した邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?
古代において、巫女は兵団とセットなんだな
卑弥呼の役割は民、兵を教化して纏めることだったんじゃないか?
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている
◎櫛、巫女、兵はセット
◎櫛は衛生道具、毛じらみやフケなどを梳き除く為の道具
記紀で櫛に変えられた姫がいたような
どういう意味があるんだろう
杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。
逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている
畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事
倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな
【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト
上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
道饗祭
高天之原に事始めて、【皇御孫之命】と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・【久那斗】と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。
敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
纒向遺跡の外来系土器からは、それらの勢力は東海山陰吉備であったと推測できる
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
アチメ オオオ オオオ オオオ
【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。
卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?
布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。
石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ
ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう
切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。
饒速日とどういう関係があるのか?
卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく
神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう
魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生したヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
邪馬台国は現在のニューギニア付近にあったことが有力視されている
聞其旧語自謂太伯之後
その昔の言語を聞くと、自ら、太伯之後(の言語=呉の言葉)だと言う。
だが、なぜ、魏略逸文という文章は、女王国の位置や女王の都である邪馬壹への行程を示さないまま、女王の南にあった狗奴国を紹介したのだろうか。
邪馬台国は千葉県九十九里周辺にあったことが濃厚になった
邪馬台国畿内説が、完全に破綻しているという真実を、明快な証拠とともに、発表した直後に、日本史板を追放されてしまったな。
さて、意見を発表します。
とにかく、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、卑劣な行為を全て止めろ。
そして、まず、大和型庄内3式を、3世紀末期だとした理由を発表しろ。
僕達が、これまで、明快な証拠と共に示してきたように、大和型庄内3式は完全に4世紀になってから、初めて出現したよ。
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、やはり、討論の始まりが、遅いな。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった最大の理由は、何だろうか。
やはり、「絶対編年という物事が恣意的な物事だったのだ。」と、一般の国民にも、完全にバレたからなのだろうか。
僕達は、研究し、
「呉誌呂岱傳に2度繰り返して書かれた「会稽東冶」の印象が強く、後世や現代の頭の悪い者達が、
揚子江デルタという割合狭い範囲での孫策という武将の軍勢の2回の合戦の記録で、三国志全体で何度も登場する東治や、
建安5年に孫権が屯した場所を説明する為に引用された典略の東治や、
地理的に無余が封じられた会稽との関係性に全く疑いの余地が無い、魏志倭人伝での東治を、
東冶に書き換えてしまった。」
という真実を、完全に突き止めてしまった。
「時王朗奔東治候官長商升為朗起兵」という文章を読んだ後世や現代の頭の悪い者達が、
候官が冶に関わりが強いというくだらない駄洒落のような物事で、
東治を東冶と書き換えた理由にした可能性が高いな。
王朗が候官に逃げこんだのならば、
「時王朗奔東治候官長商升為朗起兵」
ではなく、
「時王朗奔候官候官長商升為朗起兵」
と書けば良いだけなのだったな。
しかも、王朗の為に挙兵した商升を殺した者は、孫策の軍勢でもないぞ。
「時王朗奔東治候官長商升為朗起兵」という文章を読み、
候官が冶に関わりが強いというくだらない駄洒落のような物事を、
東治を東冶と書き換えた理由にした後世の者達は、驚くほど、頭が悪いな。
1。 王朗奔東治
2。 候官長商升為朗起兵
3。 遣永寧長韓晏領南部都尉將兵討升以齊為永寧長晏為升所敗
4。 齊又代晏領都尉事升畏齊威名遣使乞盟
5。 齊因告喩為陳禍福升遂送上印綬出舍求降
6。 賊帥張雅・彊等不願升降反共殺升
という物事の進行では、「東治ではなく東冶」に逃げ込んでいたのだと(有り得ない)仮定をされた王朗が、孫策の軍勢に捕獲される余地が全く無いな。
日本で今まで発見された木簡の何十倍も発掘されたのは日本の中心地だった証拠だよ
獻帝春秋という謎の読み物では、
朗泛舟浮海欲走交州為兵所逼遂詣軍降
とあるが、
王朗は、まだ存在しない交州に逃げようとしたのではなく、
「州を走って交わす(=移る)ことを欲した」だけであり、
その目指した行き先は、数行先の
又迫大兵惶怖北引
で、明快になるが、会稽太守になる前にいた「北」の州なのだな。
だから、やはり、東治は、船を浮かべて渡った北岸の、太湖以東の蘇州や上海付近の何処かということになるな。
邪馬台国畿内説は、もう、完全に破綻してしまったので、誰かが、奥山氏という狂った朝鮮人のような、邪馬台国畿内説を宣伝する狂人を演じなければ、活発な討論は始まらないよ。
206 名前:名無しさん? 2022/05/29(日) 20:44:02.97 ID:1/2KQ74b
邪馬台国に関する活発な討論が行われているようだな
英語の達人が云うには、英文は英文のまま理解できるのが本当の達人だそうだ。
つまり、オレ様は漢文の達人だから倭人伝を倭文に翻訳してやろう・・、という優越思考では、
翻訳した倭文は日本文になり、南は東だ〜などの脚色が入って真実が歪められる。
倭人伝は、そのまま中華文として理解され、解釈されなくてはならんのだ。
中華麺を中華料理として、そのまま食べるために、商店街を東に進んだ蕎麦屋ではなく、町内のすぐ南にある中華料理屋に行けば、杏仁豆腐も食べられるな。
そして、魏志倭人伝を、そのまま中華文として理解し、解釈すれば、
郡の境界から女王の境界までの距離と書かれた萬二千里で行きつく奴国が、
邪馬壹から国々を「次」々に進行して行きついた女王の境界であるとも書かれていることに気づけるぞ。
だから、帯方郡から奴国までの道順と、女王の都から奴国までの道順を示したので、杏仁豆腐が美味いのだ。
分かったか。
だが、後漢書での「王朗が捕獲された東治でもある、魏志倭人伝の東治を、東冶と書き換えた誤り」の理由は、
本当に、
「
1。 王朗奔東治
2。 候官長商升為朗起兵
3。 遣永寧長韓晏領南部都尉將兵討升以齊為永寧長晏為升所敗
4。 齊又代晏領都尉事升畏齊威名遣使乞盟
5。 齊因告喩為陳禍福升遂送上印綬出舍求降
6。 賊帥張雅・彊等不願升降反共殺升
という物事の進行では、「東治ではなく東冶」に逃げ込んでいたのだと(有り得ない)仮定をされた王朗が、孫策の軍勢に捕獲される余地が全く無い。
」
ということを理解できなかった、頭の出来栄えがあまり良くない者が、「時王朗奔東治候官長商升為朗起兵」という文章を読み、
候官が冶に関わりが強いという、くだらない駄洒落から東冶を思いついてしまったという理由や、
「呉誌呂岱傳に2度繰り返して書かれた「会稽東冶」の印象が強く、後漢書の作者が、
揚子江デルタという割合狭い範囲での孫策という武将の軍勢の2回の合戦の記録で、三国志全体で何度も登場する東治や、
建安5年に孫権が屯した場所を説明する為に引用された典略の東治や、
地理的に無余が封じられた会稽との関係性に全く疑いの余地が無い、魏志倭人伝での東治を、
全て、東冶なのだと愚かに誤認した。」
という理由だけなのだろうか。
本当は、後漢書の作者が、当時の情勢のために、洛陽付近や洛陽以北の資料に、アプローチできずに、一寸千里の法の距離感や、あるいは一寸千里の法の知識そのものを、持ち合わせていなかったからなのでは、
ないのだろうか。
そして、牛乳とは無関係の真実の杏仁豆腐は、魏志倭人伝時代の中国で、名医が作製した可能性が、あるのでは、ないのかな。
おい、奥山氏よ。
杏仁は、薬膳だが、貴方の脳にはあまり効き目は無いぞ。
中国人が作る中華料理と、倭種が作る中華風料理では、
名前は似ていても、レシピや出来上がりや味は別ものだからな
倭人伝の真実が明らかにされては困る国や政府があるのではないのかな
奴国が二つあることにして、狗邪を倭の使訳通ずる30国から除外したい、朝鮮の民族や国家があるのだったな。
日本の英語教育は、英語を日本文に直し、日本語のアタマで再理解する教育にほかならぬ。
そんなお勉強法ではいつまでたっても英語は喋れないし、真の英語の意味は会得できない。
倭人伝も同様だ。
読み下し文と称し、古代中国語を明治的日本語に直して読んで、古代中国の何が理解できるというのか。
結局奥山らのように、方角ちがいの東方へ進んで威張り散らす、東方見聞録的書生が量産されるだけなのだ。
漢字だからと云って簡単に日本語に直せるわけではない。
陳寿は漢字の知識が素晴らしかった。それを余すことなく理解するには、英語に直して読むのが千倍も万倍も適切だ。
〔歴史は繰り返す〕
プーチン・・・後漢皇帝曹操
ゼレンスキー・・・それに逆らった公孫淵
さてどうしたものかなのNATO・・・東南大海中の倭国